切手というモノを、ちょっと違った角度から眺めてみると、あなたの知的好奇心をくすぐる新たな発見がイロイロあるのです。そんな切手の面白さを綴っていこうと思っています。
レーニン誕生150年
2020-04-22 Wed 01:37
ロシ革命の指導者、ウラジーミル・レーニンが1870年4月22日に生まれてから、150周年になりました。というわけで、きょうはこの1枚です。 これは、1934年、ソ連が発行した"レーニン没後10周年"の記念切手のうち、幼少時代のレーニンの肖像を取り上げた1枚です。
現在でも、ときどき、「ロシア革命はユダヤ人の革命であり、ソ連はユダヤ人が作った。ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の多数派で、後のソ連共産党の源流)の8割はユダヤ人だった」とする主張する人がいます。しかし、こうした主張は、歴史的事実に照らしてみると、かなり荒唐無稽なものです。
1917年2月、ロシア帝国を打倒したした最初の革命直前の時点で、ボリシェヴィキの党員数は約2万3000人で、そのうち"ユダヤ人(本人の申告による)"は364人と圧倒的に少数派でした。
その後、革命が進行し、1922年末にはソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が発足します。この頃になると、ソ連全体での共産党員の数は爆発的に増加していきますが、それでも、ユダヤ系党員は1万9564人、全党員の5.21%にすぎません。
さらに、1923-30年のソ連人民委員会議(閣議に相当する組織)の構成員23人中ユダヤ人は5人(2割弱)しかいませんし、議会に関しても、1929年のソヴィエト連邦最高評議会の民族別議席割当数はロシア人に402議席、ウクライナ人に95議席、ユダヤ人に55議席、ラトヴィア人に26議席等で、ユダヤ人は1割程度です。したがって、ソ連国家の指導部におけるユダヤ人の比率は、党員全体に比べれば高いと言えますが、それでも、「革命政府の約8割がユダヤ人だった」などというのは無理があります。
革命の最高指導者であったレーニンに関しても、彼が"ユダヤ人のクウォーター"だったことを、ロシア革命がユダヤ人の革命とする根拠(のひとつ)として挙げる人がいます。
たしかに、ウラジーミル・レーニンの母マリア・アレクサンドロヴナ・ブランクにはユダヤ人の血が入っています。マリアの父(レーニンの母方の祖父)アレクサンドル・ブランクは、一般に、ウクライナ生れのユダヤ人で、正教に改宗した人物といわれていますが、エカテリーナ2世の時代にドイツから来た入植者の子孫とする説もあります。また、マリアの母アンナは、ドイツ人とスウェーデン人の両親から生まれ、信仰としてはルター派のプロテスタントでした。
一方、ウラジーミルの父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフはチュヴァシ系解放農奴の父親とカルムイク人(ロシアに移住したテュルク人の末裔)の母親から生まれました。
こうしたアンナとイリヤの子としてのウラジーミルは、ロシア帝国の法的な解釈によれば、彼は"モルドヴィン人(モルドヴァ人)、カルムイク人(中央アジア系)、ユダヤ人、バルトドイツ人、スウェーデン人による混血"となります。したがって、多種多様な民族が複雑に交じり合った血統の人物として、一言で表現するなら"ロシア帝国人"としか言いようがありません。しかも、ユダヤ人の血統を引く祖父も正教に改宗しているのですから、宗教的には"4分の1"以下です。
したがって、レーニンにはユダヤ人の血が流れているとはいえ、ドイツ人やモルドヴァ人の要素を捨象して"ユダヤ人"という要素だけを強調するのは、フェアな議論とは言えないでしょう。
さて、現在、いわゆる"ユダヤ陰謀論"の矛盾や、そうした陰謀論が出てきた背景などを開設する書籍を刊行すべく作業を進めています。すでに、本文は脱稿しており、これから校正作業に取り掛かろうという状況です。正式な書名や刊行日、定価などが決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。
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