かつて大英帝国にパーマストン卿あり。
人にできないことを三つもやった。
一つ。激昂する米国世論を恫喝だけで屈服させる。
1839年。英国領カナダと米国の国境で、英国人スパイが逮捕された。当然、米国の法律に従えば死刑である。ところがパーマストンは釈放を要求する。その時の文句がすごい。
焼くぞ!
もう少し丁寧に紹介すると、「なるほど我々はカナダにはそれほど陸軍はおいていない。しかし、その気になればニューヨークもボストンも灰にできることを君たちはお忘れではないか。」
その後の歴史で「リメンバー○○○」を三回も繰り返した米国世論も沈黙。スパイを無罪放免引渡しをしたとか。
米国人のすごいところは、自分が弱いと思うと、それを自覚した行動が取れるところである。
二つ。支那便衣兵を叩くだけ叩いて見事に引き上げ。
1840年。有名なアヘン戦争(英清戦争)を引き起こす。最近の研究では単純な構図ではないと言われているが、当時は麻薬を密輸して取り締まられたのに逆切れして英国が弱いものいじめをした戦争と言われていた。その善悪はともかく、中国大陸の戦は、正規軍が壊滅してからが本番である。
清朝正規軍はこの時も一ヶ月で壊滅した。その後の十一ヶ月は、延々と便衣兵(ゲリラ&テロ)との抗争である。今のイラクと大して変わらない殺し合いである。英国は不平等条約を押し付けて、さっさと引き揚げた。
三つ。嫌がるロシアを戦争に引きずり出し、袋叩き。
1853年。在野のパーマストンは外交界の長老として世論を煽りまくり、クリミア戦争を引き起こした挙句に介入。ロシアという国は、戦闘力が弱いことを自覚しているので物量に頼るし、それ以上に外交が上手で慎重な国である。ところがこの時ばかりはまんまと欧州で孤立し、袋叩きにされた。
その他、パーマストンに関しては、詳しくは下記を参照。
君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交 : パーマストンと会議外交の時代』(有斐閣、二〇〇六年)
少しばかり自慢をすると、実はこの本を書いてくださいとお願いしたのは私です。初対面から「中華ナショナリズムババ抜き」の話で盛り上がり、周囲から「いつからの仲ですか」と訝しがられ。で、二回目の時には有斐閣の君塚さん担当の方と「本格的なパーマストンの話を書いてくださいよ」という話に。
帯は、「ネオコンなど生ぬるい!」
「艦砲射撃は男のロマン!」
では、会社の性質上、企画が通らないということで、
「英国外交の神髄」が採用されましたが。酒が回ると「パパパパパーマストン」などと、どこぞのパフィーの番組のような話にも。。。
閑話休題。
昔からパーマストンに注目していたが、十九世紀の大英帝国、まさにあらゆる面で超大国で、他の普通の大国が三つくらい束になってかかってやっと互角なのですね。絶頂期の米国と違い頭も良いし、今の米国と違い中国とロシアが結束すれば何も言えなくなる、どころかフランスが「国連安保理で拒否権行使するぞ」と言えばすごすごと出て行く、などということはないのです。
現代の我々にとって重要なのは、米国は決して超大国ではないということです。
この砦でもしつこく言っていますが、大江健三郎あたりが撒き散らした、根拠不明なアメリカコンプレックスから自由になるべきでしょう。
さて、十九世紀の大英帝国が、絶頂期の米国よりも力が強く頭が良かった。
これはここまで言えばお分かりいただけたと思う。
我々の先人たちは、こんな相手と張り合ったのである!
そして幕末維新という自己改革を成し遂げ、独立を守ったのである。
米国があり、中国がある。そして日本がある。
何かをしなければと思った時点で、あなたは既に坂本龍馬です!
※(ブログ以外で)
1850年、イギリス籍のユダヤ人、ドン・パシフィコという人がギリシャで家を焼かれるという事件が起こりました。ユダヤ人差別もあって、ギリシャの官憲はまともに捜査すらしなかった。これにパーマストンが激怒。艦隊をギリシャに派遣して戦争も辞さずと恫喝した。これにはさすがにヴィクトリア女王を初めとして非難が沸き起こったのですが、パーマストンは意に介さず、議会で歴史に残る演説を行ないました。それが後に「我こそはローマ演説」と言われるもの。
つまり、どんな事情であれ、英国籍の国民は護るということ。拉致し会社も救えない我が国国民が肝に銘じておくべきことですね。かなしい。私が総理大臣なら、憲法違反とかどうかではなく軍を派兵して北朝鮮に攻め込みます。
日本国憲法「典」が国民護れない愚策であることは今回のパンデミックでもわかりましたよね。
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