私の履歴書 8(皇紀弐千六百八十年 令和弐年六月六日 參)

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 枚方時代の最終回です。母の話。

  厳しかったのですが、私にはすべてが優しさにしか映っていません。

 九九を覚える学年になったとき、母が炊事をしている台所に立たされて三回連続ひっかからないで言うまで繰り返されました。喧嘩で負けて家に帰ると「お母さんは、そんな弱い子を産んだお覚えはありません。もう一度やってらっしゃい。勝つまで帰って来てはいけません」と言われました。もちろん、年上のお兄ちゃんとの喧嘩なので勝つわけがありません。きっと「勝て」ではなく「負けるな」と教えたかったのでしょう。

 
 手紙の書き方、辞書の引き方、鉛筆の削り方(当時はまだ鉛筆削りがなかったから自分でナイフで削っていた)。あんなに貧しかったのに、本は好きなだけ買ってくれました。

 ちょうど、父が大病を患って、祖母と母が内職をして暮らしていた時のことです(今のように労働者は労働法規に分厚く護られていなかった)。

 あとは、なんだろう???枚方時代はこれでをはり。先生の名前は誰も覚えていません。

 あっ、あった!コーヒー牛乳事件。小学校三年生1学期。

VS

 給食のミルクが脱脂粉乳という、この世にこれほどまずいものがあるのだろうかと思うほどのものからなんと、瓶の牛乳に替わったのです!!!
 
 すると、先生が、生徒にアンケートを配りました。そこには「白牛乳」「コーヒー牛乳」「フルーツ牛乳」の三種類が書いていました。選べるように。先生が言いました「全員白牛乳に〇をつけるように」と。

 別にいいのですが、なら、こんなアンケートなど取らなければいい。

私「では、なぜ、こんなアンケートを取るのですか?」
先「口答えをするな。親と相談して明日白牛乳に〇をつけてアンケートを持ってこい」

相談して白牛乳ってなんやなねん。

 私は、絶対にコーヒー牛乳に〇をつけてやる、と決意し、親友にそれを告げました。親友も同意して二人でコーヒー牛乳に〇をしよう。と誓い合いました。

 帰宅して父母に言いました。「自分で決めろ」と一言。

 次の日です。

 コーヒー牛乳に〇をつけたのは私一人。フルーツ牛乳はもちろんなし。あと全員 白牛乳。

 親友は??? 泣きそうな顔で私の方も見ず下を向いていました。かえって悪いことをしました。

先「宝徳、白牛乳はお前だけだ。お前も白牛乳にしろ」
私「嫌です。別に何牛乳でもいいですが、このアンケートの意味が分かるまで変更しません」

 給食の時間に私の机に運ばれたのは白牛乳でした。もう忘れましたが、おそれく2週間ぐらい飲まずに抵抗したと思います。

 父が、「大人が振り上げたこぶしを降ろさせることが大人に喧嘩に勝つことだぞ」と教えてくれて納得して白牛乳を飲み始めました(笑)。

 さて、小学校三年生一学期が終わります。静岡県駿東裾野町立裾野東小学校に転校します。

つづく

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このページは、宝徳 健が2020年6月 6日 07:37に書いたブログ記事です。

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