大和言葉15(皇紀弐千六百八十年 令和弐年六月六日 弐)

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みてもまた 逢ふ夜まれなる 夢のうちに やがてまぎるる 我が身ともがな

 源氏物語 光源氏の歌です。なんと、帝である父の女御 藤壺と密通してしまったときに歌ったものです。

「また逢ふこともないのだから、いつそ夢の中に消へてしまひたい」

 この歌、ふられたときにいいですね。覺へとかうつと。

あふまでの こいぞいのりに なりにける としつきながき ものおもへとて

 續後撰和歌集の歌です。

「何度も思ひを告げたけれど、あの人は受け容れない。でも、はつきり拒絶してもいない。ああ苦しい。ずつと恋心を伝え続けたけど、私のこの思ひひはもう祈りに昇華してしまつた。ずつとこの恋に苦しめばいいと、言はんばかりの彼女の気持ちを変へることができるのだらうか」

 和歌はいいですね~。
 逢瀬が直接使われた和歌では少ないのですが「逢ふ」、つまり逢瀬の和歌はとてもたくさんあります。

 「逢ふ」。つまりデートです。逢引きではないですよ(笑)。やましい気持ちが出てきますから。

 これを大和言葉で云ふと、「〇〇さん、山菜摘み逢瀬はいかがですか」となります。

 瀬が「場」「機會」です。

 「次の逢瀬はいつにしようか?」

 若い人にはだめですかね~(笑)。
 
 ちなみに「おうせ」ではだめです。「あふせ」です。

 どちらでもいいじゃないかと言う人もいるかもしれませんが、では、國歌の「いわおと」と「いはほと」はどうでせうか? 私は子供のころずつと「岩音」だと思つていました。「巌と」です。假名遣いで意味が違ってきます。我が国家 君が代は、現代假名遣いでは、あらわすことができません。

 読み方は「おうせ」でいいのですよ。書き方です。言霊としての言葉の意味が違つてくるのです。 

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このページは、宝徳 健が2020年6月 6日 07:03に書いたブログ記事です。

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