交通事故三年(皇紀弐千六百八十年 令和弐年十一月六日)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 今日は息子の誕生日です。
 
 そして、三年前の今日、交通事故に遭いました。息子の誕生日に事故に遭うなんて(涙)。

 これまで、お仕事でつながりがある関係者にしか事故の経緯は語っていませんでした。今回、報告します。

 気持ち悪いので、嫌な人は「続きを読む」をクリックしないでください(笑)。関係者の皆様に送った手紙です。写真はかなり縮小していますが。

 五年前の心臓バイパス手術の時は、三か月もすると体力も回復したのですが、交通事故はダメですね。強い打撃は身体をかなり弱めます。工夫しながら仕事をしています。

 この後一年にわたり、上歯茎に入れたプレートを除去する手術、腰骨を上歯茎に移植する手術と二度にわたる全身麻酔手術をしました。
 
 警察の現場検証に立ち会ったときには、完全に死亡事故クラスでした。と言われました。まあ、まだ生きてしんどい思いをしろという天の啓示なんでしょう。
 

平成2912月吉日

関係各位

宝徳 健

 

事故報告及び今後の対応について

 

 表題の件、以下の通り報告させていただきます。長い間ご迷惑をおかけしましたことを心かお詫び申し上げます。

 

Ⅰ 経緯

1.事故内容

平成29116()20時半~21

 同日20時過ぎにM氏との仕事の打ち合わせが(北陸事務所で)終わりました。食事をしていなかったので、M氏に車でコンビニまで連れて行ってもらって、おにぎりとおかずを買い、事務所に戻ってきました(一滴も飲んでいません)。M氏の車を事務所前道路の対面で降りました。道路の幅は8m程度です。田舎ですので、横断歩道はほとんどありません。左を見ると、250メートルぐらい向こうに横断歩道がある信号に車が一台止まっていました(信号は赤でした)。「ああ、これなら横断できるな」と思い、横断を開始しました。私が横断を開始したとたん、信号が青になりました。止まっていた車がゼロヨンのように加速してきました。ヘッドライトに私の姿が映っているはずなのに、どんどん加速してきました(前を見ていないように)。


 当然、減速をするだろうと思っていた私は、歩く速度が遅くなってしまいました。それでもブレーキがかからず、周りで見ていた人たちの証言でも、恐らく時速70㎞ぐらいのスピードで私にぶつかったと思われます。


 ぶつかることが避けられないと判断した私は、接触面積を最小にしようとしゃがみこみました。車は、私にぶつかる直前にブレーキを掛けました。車のバンパーとボンネットの間のフロントの網のところに、私の左顔面が衝突しました。衝突後、大きく私が飛んだようです(着地までの記憶はない。着地は、かなり飛んでからだと思われます。両膝、両肘で受けたようです。傷がありますので)。


着地した時から記憶があります。意識ははっきりしていたので、立とうとしましたが、近所の人が「救急車と警察に連絡した。救急車が来るまでそのままでいなさい」と仰ったのでそのままでいました。自宅に帰りかけたM氏も大きな音にびっくりして戻ってきてくれました。これが事故内容です。

 

2.救急車搬送後

恐らく21時~22時半

 救急車で小浜病院に運ばれました。どんな検査を受けたかははっきり覚えていません。脳のCTは受けました。エコーとレントゲンもやったと思います。血液検査も。心臓病だということを伝えると、どんな薬を飲んでいるか聞かれました。お薬手帳は、事務所においてあるので、わからないと言いました。それで、ハートセンターとなかしま脳神経外科クリニックに連絡がいったのだと思います(私がそこで治療を受けていることを言ったので)。

 

 結論としては、「当院では処置ができないから早いうちに転院」です。

 

 手術室に入りましたが、どんなことをされたかは覚えていません。手術室から出たらとにかく「うちではできない」ばかりでした。

 

22時半~翌4時ぐらい

 その夜はICUに入り、応急処置をしました。顔にひびが入っているので、口と鼻に血がたまり、それを吐き出したり吸い取ったりしていました。

 

 ものすごく夜が長く、時間の観念がなく、スマフォだけは(こっそり)できたので、関係者にラインで知らせました。ために連絡が朝早くになってしまってみんなに迷惑を掛けました。


74時~午前中

 生理的食塩水と他にも点滴が打たれました。転院と言っても、23日後だろうなと思っていたら、とにかく事務の人が、転院先を探しまわりました。最初は、神戸市立医療センターというポートピアかどこかにある病院にベッドの空きがあるということで、そこに行かされそうになりましたが、「家から遠いからいやだなあ」と思っていたら、そこのベッドがいっぱいになったとのこと。また事務の人が探しまわりました。すると「兵庫医大(わが家から歩いて10分)に空きが見つかった。ここがいっぱいにならないように、今から行くと意思決定してくれ」とのこと。「介護タクシーを予約してもいいか。85千円ほどかかる」「今日の19時までにいかないとだめだと兵庫医大は言っている」ととにかく転院をさせたくて仕方がない様子でした。

 

 行くにしても、一度、事務所に荷物をとりに行く必要があります(保険証・お薬手帳などもあるので)。それに、介護タクシーに払うお金なんて持っていません。M氏と連絡を取ると、M氏が西宮まで車で送ってくれるとのこと。ただし、出るのが17時になると。

 

 それを小浜病院に伝えると、すぐに転院手続きがなされました。かなり身体はしんどかったのですが、こんな病院にいたら殺されると思い、転院することにしました。

 

Ⅱ 兵庫医大にての治療

1.転院

午後~

 M氏には事務所まで17時に来てもらい、私は30分前に事務所に行って、帰る準備をしました。

 

 その後、M氏の車で兵庫医大に着きました。着いたのは21時だったと記憶しています。兵庫医大には、妻が待っていました。

 歯科口腔外科で、レントゲンだけ撮って病室に。

 

2.検査から手術

8日(水)

 脳神経外科・整形外科・形成外科・歯科口腔外科(メイン)・内科・眼科がかかわるとのこと。CT・エコー・レントゲンなどなど検査。小浜病院で縫った口の中はあまりにも縫い方がずさんということでもう一度縫いました。「なんでこんな状態で転院してきたのか」と医師に言われましたが、そんなことは私に聞かれても困ります。

 

 私の状態は、意識ははっきりあるし、動くこともできました。検査結果を家族と聞いても、「脳異常なし」「首異常なし」「首から下異常なし(肘と膝の擦り傷だけ)」で、とにかく顔面と口だけでした

 死亡事故になってもおかしくないぐらいでしたから、奇跡としか言いようがありません。医師は何度も脳のCTを撮りました(小浜病院でも3回撮った)

 

 ただ、体温39度ぐらいが次の日まで続きましたし(広い病院の中を点滴をつけながら、一人で検査に動き回っていましたが)、身体を護るために血糖値が跳ね上がりました。

 

 顔面多発骨折だそうです。①目の間の骨折、②右目の下の骨折、③鼻の骨折、④顎の骨折、⑤口の中の裂傷、⑥(特に左前歯)がなくなった、⑦両顎の蝶番がとれた という症状みたいでした。




 

14日が手術となりました。手術は、歯科口腔外科、形成外科でした。右ほほにプレートが入りましたが、吸収性ということでプレートをとる手術を後日する必要はないようです。

 15日、午前中までHCUにいて、普通病棟に帰りました。


3.手術後

 その後の経過の写真です(後輩が作ってくれました)

 術後の経緯も順調で、術後11日目の1125日に退院しました。123日までは自宅療養をしながら仕事をしました。


 

Ⅲ 現在

1.各科の対応

(1)脳神経外科

 127日(木)に再度CTを撮ります。MRIをしていないので、次回、主治医でもある、なかしま脳神経外科クリニックに行ったときに撮っていただく予定にしています?1211日(月)18時頃に今回の事故報告に当該クリニックに行く予定にしています。

 

(2)形成外科

 平成3015日(金)に診察となっています。

 

(3)口腔外科及び歯科

 定期的に治療になると思います。まずは、入れ歯を入れて、その後、1年ぐらいかけて歯の修復(?)に当たるそうです。それがインプラントなのか何なのかは、これから検討するそうです。

 

 内科・眼科はもう終わりです。

 

2.私の状態

(1)体調及び治療状態

ア.顔面神経

顔面神経が一部麻痺しているため、唇のしびれがあり、完全に「うー」「いー」「グチュグチュペー」ができない状態です。口の中を縫ったところは痛さはありません。痛み止めの薬も退院前から飲んでいません。この麻痺がなくなるとかなり楽になります。前歯がなくなっているので、しゃくれ顎になっています。日々よくなってはいます。

 

イ.歯

 前述のとおりです。噛み合わせが2か所しかない状態です。

 

ウ.目

 右目の下の骨折を手術したため、右目が少し腫れています。朝、目やにもたまります。

 

エ.顎

 上下に十分あきません。これは「焦るな」と医師に言われています。

 

 

(2)食事

 手術後5日程度は流動食でした。その後3日は3分菜食、その後退院まで5分菜食でした。退院後は、硬いご飯だけはまだ閉口しますが、おかずは、硬さというより大きさ(口が十分開かないので)が難点です。大きなものも、細かくすれば少々硬くても食べられますし、今は、おかずは普通食です。とてもおいしく食事を摂っています。

 体調はすこぶる良好です。

 

Ⅳ 今後

 歯科口腔外科・歯科で口及び歯の修復を中心に兵庫医大に通院します。脳神経外科・形成外科は、必要があれば検診を受けるという流れです。

 

 私は、あと20年仕事をします。しかしながら、現在の仕事の仕方・生活の仕方は50代前半のものでした。それでは、あと20年は無理だと、天の鉄槌が下ったと思っています。怪我から今まで、ゆっくりと考える時間がとれました。生活も仕事も全面的に見直します。ゆっくり、できる範囲で、無理なく・・・。

 

 今後ともご指導をよろしくお願い申し上げます。

 

                                                  以上


トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/8532

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2020年11月 6日 07:17に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「つれづれなるままに(皇紀弐千六百八十年 令和弐年十一月三日 弐)」です。

次のブログ記事は「私の履歴書10(皇紀弐千六百八十年 令和弐年十一月六日 弐)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。