私の履歴書 13(皇紀弐千六百八十年 令和弐年十二月月十二日 弐)

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 静岡県駿東郡裾野町(現裾野市)で小学校四年生になりました。すばらしい先生との出会いがありました。

 私は、学校人生において、二人の素晴らしい先生と出会っています。私の人生を修正してくれた方々です。このお二人がいなかったら、私の人生はかなり曲がったものになっていたでしょう。

 高橋一三先生。

 私が社会人になってしばらくしたときのことです。私のいとこ姉弟が御殿場に住んでいたことがありました。高橋一三先生は御殿場の方です(実家は農業をやられていた)。

 なにかいとこたちが、高橋先生の田んぼだか畑だかで、(当時の子供のころに)いたずらをしていたら(もちろん二人は高橋先生のことは知らない)、高橋先生が来て、つかまったそうです(笑)。

髙「名前を名乗りなさい」
二「宝徳といいます」

となったときに、「何、宝徳? 君たちは宝徳健の親戚か何かか?」「はい、いとこです」となって、無罪放免(笑)。 あのときに、連絡を取っていたら今でも(ご存命かどうかは存じ上げていませんが)、手紙のやり取りなどが続いていたのになあ。

 閑話休題。私は、調子に乗ると、自分の悪い癖が出ることがあります。四年生になったばかりのころ、この症状が出ていました。
 すると、初日に高橋先生から強烈な拳骨をたまにいただきました。

 当時の日本は、家に帰って「先生に叩かれた」なんて言おうものなら、親からまたしばかれていました。「どんな悪いことをしたんね!」と。今は、暴力教師として先生たちは糾弾されます(まあ、先生たちのレベルも驚くべきものに低下していますが)。

 当時はまだ戦前の教育風土が先生たちに残っていました。愛情たっぷりです。

 私は五年生の時に福岡県遠賀郡芦屋町立芦谷小学校に転校しました。それが決まった時にある日曜日に、高橋先生から、「明日の〇時に小学校まで来い」という呼び出しがありました。

 行ってみると高橋先生がいらっしゃいました。これをいただきました。




 わざわざ安倍川に行って石を拾ってきてくださいました。台も石も、きれいにニスを塗ってそして、修二が上手だった先生の手書きメッセージ。涙が溢れました。父も母も高橋ん先生の人間性の高さに改めて感謝しました。

 昔の学校の先生はここまでやったのです。私が九歳になる年です。なので、今から五十三年前です。今でも私の事務所に大切に飾っています(これは今の事務所で撮影したものです)感謝合掌。つづく。

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このページは、宝徳 健が2020年12月12日 07:05に書いたブログ記事です。

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