出光興産㈱ 昭和三十三年入社組というのは、出光興産㈱の歴史の中でも優秀な方々の集まりでした。同期から何人も役員が出て、最高は副社長です。当時は、出光家関係以外の人はほとんど社長になれませんでしたから出光興産㈱の中では、その人は、位人臣を極めたと言っていいでしょう。
その入社組がバリバリの頃、出光佐三店主と懇談をしたことがありました(テープで聞きました)。「組織はこうした方がいい」「マーケティングはこうした方がいい」「経理はこうあるべきだ」・・・。
出光佐三店主は「お前らは出光の癌だ」と怒鳴りつけました。
このテープを聞いたとき私は「何が悪いんだろう」と思いした。
今ならわかりますね~。「一人一人が経営者であれ」と常々いて出光佐三店主はおしゃっていました。つまり、上記ビジネスモデルを仕事の中で考えるのは当然ですが、出光興産という会社の在り方を忘れてビジネスモデルを考えてはいけないということです。つまり
誰が正しいかではなく何が正しいか
「お前たちの代で出光興産㈱はつぶれる」と怒鳴った佐三店主は、「店主室教育」を始めます。これが先日ここに書いた10年目前後の社員を四十日間仕事から離す教育です。出光興産㈱いや、日本の在り方を自らが研究する教育です。
その中の一つが夜久先生の講義でした。すばらしい方なので、興味を持った私は、夜久先生の本でたくさん学びました。その一つが「白村江の戦い」です。
白村江とは、日本書に出てくる古代朝鮮の百済の地名で、昔は「はくそんこう」と読んでいましたが、敗戦後は「はくすきのえ」と訓(よ)んでいます。
「はく」は「白」の漢字音。「すき」は「村」の朝鮮音。「の」「え」はもちろん日本語です。「え」は江。つまり入江の意味です。なので「はくすきのえ」という地名は、支那語、朝鮮語、日本語からできている不思議な地名ということになります。
それは「日本書紀」にでてくる読み方を参考につくられているので、支那語、朝鮮語でそう読んだのではありません。支那語では「白江口 ハクコウコウ」、朝鮮語では「コマルナル」だそうです。
倭國(日本)、支那(唐)、朝鮮(百済・新羅)の三國(新羅と百済は敵対関係)がたたかたたので、三つの國の言葉を混ぜたのかなあ(笑)。つづく
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