私の履歴書(皇紀弐千六百八十一年 令和三年二月十日 五)

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 なかなか小学校六年生が終わりません(笑)。それほど、しんどかったけど、面白かったのですね。事実、この時代がなかったた、私は「喧嘩」という精神性を会得しないまま大人になったでしょう。くだらない大人に。

 暴力と喧嘩は違います。紙一重ですが。

 繰り返しますが、あの、横暴な欧米や支那共産党とどう戦うのでしょう?戦える将来の子供を育てていますか?

 喧嘩をしてはいけません。世界の七不思議です。

 えっと、次ですね。中学一年生。
 う~ん、とにかく怖かった。

 学年番長から給食室に呼ばれて「お前、こいつと喧嘩しやい」と。見たこともない同級生と(当時は一学年で200人以上いましたから)。

 先輩に逆らえるはずがありません。給食室で対峙。どげんしょうかねえ、って。

 そげんしたらくさ、その同級生がくさ、負けたくないけん(当たり前)、牛乳瓶ば、もって、壁にバチーーンってくさ、ぶつけるったい。

 ばってん、牛乳瓶はくさ、ビール瓶と違うと。口から割れると。武器にならんと。みんな大笑い。

 その前に、授業をさぼって、パチンコ屋に行ったことがあったったい。補導員が来たけんくさ、友達と裏口から逃げたったいね。

 そしたらくさ、裏口で怖か、お兄さんが二人で、タイマン(喧嘩)ばしよったと。おしっこをちびりそうになりながら、みとったと。

 そんときに、初めて知ったと。「ビール瓶はくさ、牛乳瓶と違って途中から割れるけん、人ば傷つけられるっちゃね」と(博多弁)。だけんくさ、中学校からパチンコばせんくなったと。親には内緒ばい。

 閑話休題。

 だけん、給食室の牛乳瓶やらなんも怖くなかったとって。

 給食室画像 に対する画像結果牛乳瓶画像 に対する画像結果


 喧嘩をしてはいけません、という今の社会。当時の怖くて怖くて仕方がなかった社会。恐怖は自己責任で切り抜けるしかなかった。どっちが子供たちを育てるのに素敵ですか?どちらが愛する人を護れますか?

 息子が小さいとき、たまたま夕方に私が家に早く帰ってきました。家の電話がなりました。私がとりました。

「今日、お宅の息子さんが、学校で喧嘩をしました」
「そうなんですね。連絡ありがとうございます。ところで、勝ちました?負けました?」
「はっ←先生」。私は嬉しくてうれしくて仕方がありませんでした。

 かみさんに言いました。「次の個人面談は俺が行く」

 先生とその話になりました。

先「あんなことを仰ったら次からはお宅に電話ができなくなります」
私「どうぞ。彼は学校で家では味わえない社会生活を経験しています」
先「それでいいんですか?!」
私「先生ね、私の時代は日本全国で一学年に260万人いました。息子の年代は120万人しかいないんです。もし、息子が私と同じ能力で育ったら、国は半分の力になるんですよ。だから、あなたちの教育は、子供たちを今までの倍以上に国の宝に育てることでしょう?あなたたち教育者の目的とは何だ」

と言いました。かみさんは、二度と私に個人面談に行けといわなくなりました涙。。。

 ばってん、これでいいと?男の子ば育てないかんちゃろ????

 なして、牛乳からごげな話になるとかいな笑笑。

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このページは、宝徳 健が2021年2月10日 16:05に書いたブログ記事です。

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