他の学校は知りませんが、当時の我が母校 福岡県遠賀郡芦屋町立芦屋中学校が相当な悪い学校であったことは間違いありません。ただし、武器を使って殺すまで殴ったり、わけもなく、大勢で一人をボコることはありませんでした。今の不良ドラマを見るとびっくりしてしまいます。
中学校時代ほど、兄が欲しかったことはありませんでした。それも喧嘩が強い兄が。
中学になって本格的に運動部に入った私はそれなりに力をつけたのですが、小学校までは本当に弱い人間でした(気は強かったが(笑))。
だから、そのまま個別的自衛権でいたらおそらく奴隷のような人生を送っていました。
申し上げますが、「いじめ」はなくなりません。「いじめ撲滅」などというおよそ不可能なことが人間社会の中で、実現するはずがありません。では、私がその奴隷にならなかった方法を教えましょう。
まず、こんな中学ですから、新参者の私は目をつけられます。 最初は喧嘩に引きずり込まれたりしますが、「絶対に謝らないこと」です。小学校六年生の時に中学校一年生グループ20人にトイレに連れ込まれてぶちのめされた話は書きましたが、それ以来、一度も謝ったことはありません(他の中学校のエリアに行って、捕まった時は謝りましたが)。一度弱みを見せると奴隷のようになります。
まずは、小学校のころから少年野球に入りました。町内で複数のチームがありました。私の町内チームは結構 喧嘩に強い先輩たちがいました。頼ったわけではありませんが、これはひとつの存在意義(レーゾンデートル)となります。
小学校六年生から新聞配達をしました。当時はまだ我が國は貧しかったので、少年新聞配達(少女もいた)はたくさんいました。その中に、俗に言う不良という人たちも(仲良くなると本当に優しい)。
中学に入ってテニス部に入りました。当時の部活は、野球部とサッカー部は不良だらけ(笑)。当校は、サッカー部はありませんでした。なぜ、テニス部を選んだか。結構、不良グループに認められている人がたくさんいました。そして、強かった(テニスが)。
これは意図的ではありませんが、学年で一番強いET君と本当に親しくなりました。中学校二年生後半ぐらいからは、彼を中心とした、それなりの生徒たちと勉強会をしました。「高校に入りたいから教えろ」と言われて始めました。楽しかったなあ。
あっ、あと、美人の姉が結構不良連中に人気があったこと(笑)。
まだ喧嘩の弱かった中学校一年生の時は、集団安全保障とは言えません。「外交政策」です。
いじめに対しては「従属するのか」「いじめられるのか」「外交政策で防ぐのか」「自分で強くなるのか」の選択肢しかありません。
前述しましたが、徐々に体力がついてきた中学校後半は、集団安全保障となりましたが。
私が、この中学校に行ってよかったなあと思うのは、こういう生きる知恵を中学校生活から教えてもらったことです。
ちなみに、この中学校の同窓会に姉は良く出ていました。電話がかかってきます。
姉「あんた、みんな、あんたに会いたがっとったよ」
私「怖い人がいっぱいおるけんあんまり行きたくなか」
姉「心配しんしゃんな。みんなもう足ばあらっとるけん」
どんな会話や(笑)。おあとがよろしいようで。
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