道元の和歌12(皇紀弐千六百八十一年 令和三年七月二十四日 弐)

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 石頭希遷(せきとうきせん)禅師は、『參同契 さんどうけい』で、「光陰をむなしくすごしてはならない」と言っています。

 道元は、これを受けて。病気を治そうと苦心している間に病気はなおらないで、かえって容態が進み、苦痛がいよいよひどくなると、痛みの軽い内に仏道を行じないて、前年なことをしたと思う。病気と言うのは、治療しても治ることもあり、治らないこともあり、悪化することもある。

と言っています。

 白隠禅師も「健康法と逸話」や「夜船閑話」で同じようなことろ仰っています。まだピンときませんが。きっとそうなんですね。私の読書量が足りない。

 さて、道元が十六歳の建保三年(1215年)七月に、栄西が示寂(しじゃく 菩薩や有徳の僧の死)しています。栄西が開山した建仁寺は、京都に生まれた最初の禅宗寺院です。


 顕・密・禅の三教兼道場として、発足していました。栄西は、おそらく、道元を入宋求法の機会を持つ層として、門下の中から道元の支那行きを指名していました。

 道元は、比叡山を離れ、建仁寺に正式に入山しました。建保五年八月二十五日でした。

 それから、六年。二十四歳の時に、入宋しています。

 宋に入った道元は何を学び、何を体験したのでしょうか?

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このページは、宝徳 健が2021年7月24日 06:11に書いたブログ記事です。

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