今日は、亡母の誕生日です。昭和七年九月十二日 生きていれば八十九歳です。平成七年七月十日死亡 享年六十二歳。阪神淡路大震災の年です。
私たち子供が小さいときから、ずっと病気で入退院を繰り返していました。全身リウマチです。
厳しくてそして、優しい母でした。私は子供のころとても身体が弱く、父母は、「この子は大人になるまで生きられないだろう」と語ったそうです。
だから、「男」として育てることに対しては、とても厳しかった。
喧嘩で負けて帰ってくると相手が誰であれ「もう一度やってきなさい。勝つまで帰ってきてはいけません」と言われました。
辞書の引き方、手紙の書き方など基礎的なことを教えてくれたのも母です。
中学校の頃は、学年で一番だったそうです。当然、目指すは地区一番の高校。でも、受験の当日、祖父母から「お金がないから受験して高校に行かないでくれ」と言われます。当然、母はびっくりです。中学校の先生が「秋武(母の旧姓)!まだ間に合う!先生が送っていくから自転車に乗れ!」と迎えに来ました。祖母は「汎子(ひろこ)は、今、いません」と言いました。両方つらっかったでしょうね。その時母は、風呂桶に隠れて泣いていたそうです。
だから、私たちの教育、特に私の教育にはとても厳しかった。
まさに、婦道を徹底した人で、それを義務とは思わず、自分の生きがいとしていました。
出光興産株式会社の昭和二十八年の日昇丸事件(メジャーに対抗したイラン原油の輸入)の際に帰国のために航行する日昇丸に暗号電文を打ち続けたのも母でした(タイプが出来た)。一週間、窓もない四畳半ぐらいの部屋に閉じ込められて軟禁されました。タイプを打ち続けました。一週間後、疲労で倒れたそうです。
たいしたものです。当時の出光興産株式会社は、二十歳の女の子を一週間拉致する力があったのです。それも同意なんて得ていない本人の誇りになるほど。いつもこの話を自慢げに私に話してくれました。
当時としては、国際的な大事件です。敗戦に打ちひしがれていた国民から激励のファックスや手紙が来ます。亡くなる前にそれをコピーして病室にもっていきました。「私の人生も無駄ではなかったのね」と笑顔で言いました。女子社員で一人だけ帰国した日昇丸にあがって新田船長と会ったといつも自慢していました。
私が出光興産株式会社に入社するとき、「あのね出光はね残業すると天丼が食べられのよ」といったのがおかしかったのを覚えています。
ある日、病室に見舞いに行ったら、もう苦しそうで苦しそうでたまらない顔をしています。それでも、手招きします。「忙しいのにいつも見舞いに来させてごめんね」と。いつも自分より人のことです。医者に聞いたら「この方法だとよくなると思います。」と言いました。私は言いました「では、なぜ、それをやらないんですか」。医者「御家族に聞いてからと思って」・・・・・・。では、私が行かなかったらずっとその治療はやらないと思いました。胸ぐらをつかみぶん殴ることを必死で抑えました。
すぐに集中治療室に入りました。親父と交代でICUの前の廊下のソファーに泊まり込みました。親父が泊っているときに亡くなりました。「すまん」と電話が入りました。
病気がありましたが、弱っていた足骨が折れて入院しました。外科に入院したのに、内科で死ぬか。霊安室に担当医は来ませんでした。「解剖してもいいですか?」との伝達だけをして。
都立大塚病院です。
亡くなったとき遺品整理をしました。自分のものは何もありませんでした。姉が父に怒りました。「着物の一つもかってやれ!」と。それほど、自分のことより人のことでした。
激動の人生でした。
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