巨星落つ①(皇紀弐千六百八十二年 令和四年一月二日 弐)

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 士魂商才の今月号に書く記事ですが、先にブログに載せておきます。

巨星落つ

 三國史演技にある話です(支那の古典は嘘の話しが多いのですが読み物としては面白いのです)。

北伐軍を興して五度目。およそ7年が過ぎ軍と物資を消耗し続けた蜀軍、大柱石とも云える諸葛亮の病気は加速しました。諸葛亮は長安から一番近い場所である五丈原へ軍を進めて魏と対峙するのです。諸葛亮は意識不明なほど重体となり、楊儀・姜維らに遺言を残すのです。演義では諸葛亮は、12年寿命が延びるという延命の祈祷を行います。一週間、多数のロウソクの火を消すことなく延々と祈祷することができれば、延命ができるというものでした。魏の司馬懿は天文を観て諸葛亮が重病であることを察知し、先方を出して挑発させます。勿論、これに打って出ようとしなければ、蜀軍で重大なことが起きたと考えられる訳です。魏が攻めてきたことにより、魏延は諸葛亮に報告するのでした。しかし、祈祷中の諸葛亮はなにも言わず、魏延は焦りながらしゃがみ込んだ瞬間、ロウソクが一本倒れ火が消えてしまい、延命祈祷は成せなかったエピソードがあります。諸葛亮は自分の病気は天命として、姜維に軍略書物を託し、楊儀に蜀軍撤退の指揮を任せたのです。諸葛亮、夢半ばにして五丈原で死去します。享年54歳。

この度、千葉県館山市の丸高グループ(丸高ライフエナジー株式会社、丸高ティーティー株式会社、有限会社丸高ティーティーカンパニー)の総帥 高橋幸民氏がお亡くなりになりました。令和三年十二月十二日 十九時四十分。享年七十三歳。まさに巨星おつです。

 お別れ会は、令和三年十二月二十六日に行われたそうですが、まだ、ご遺体を荼毘に付す前の十二月十六日に個人的にお別れ会に行ってきました。合掌。

オーナーシップへの道

素晴らしい経営者でした。お付き合いは、出光興産株式会社 千葉支店勤務時代の昭和六十年からです。私は、まだ、社会人三年目でした。西暦で言うと1985年ですから三十六年のお付き合いです。出光興産株式会社を辞めてからも、お付き合いがありテーマのコンサルティングをいただいていました。特に、丸高石油株式会社(現 丸高ライフエナジー株式会社)みんなで作成したBCPは、素晴らしいものが出来上がりました(後程紹介)。

 私が昭和六十年に担g当をし始めた頃は、幸民さん(この時点では、こう呼んでいました)は、郷里の松崎から館山の会社に来たばかりでした。取締役ではありましたが、ベテラン揃いの先輩たちに囲まれてやりにくそうでした。当時は、故高橋久専務です。この人だけは、厳しくも温かい愛情で幸民さんに経営を承継させるべく育成されていました。それでも、他の社員からは、かなりの圧力があったと思います。

 

 当時のわが國の石油業界は、原油を中東等産油國から買ってきて、国内の製油所で石油製品を作る「消費地精製主義」でした。つまり、原油は輸入できるけれど、石油製品(ガソリンや灯油など)は輸入できなかったのです。

 さらにオイルショック(昭和48年、昭和51年)の際に、第一次エネルギーにおける石油比率が高い我が國は、産業が疲弊しないように、産業にかかわりの高い黒もの油(軽油・A~Cの重油など)の価格を政府が低く抑えました。その代わり、ガソリン等の白物油を高くしました。有名な油種間格差です。石油製品は連産品なので、ガソリンだけとか重油だけとかを原油から取り出すことができません。だから、一つを安くすると他を高くせざるを得ないのです。

 

 昭和六十一年(1986年)1月に石油製品輸入暫定措置法(特石法)が施行されました(時限立法)。特定の石油製品を輸入していとなったのです。でも、この時は油種と数量が限られていたので國内市場にはあまり影響はありませんでした。そして、平成七年(1997年)三月に石油業界の規制緩和の目玉として特石法が廃止され、輸入業者に対して備蓄要件以外の規制が外れることになりました。

 

 一時、石油業界はアップストリーム(主に元売)もダウンストリーム(せいきゅ製品販売業。特約店など)も大騒ぎです。そんなにすぐに末端価格の是正が進むはずがありません。当時の出光興産株式会社はガソリンだけで七万キロリットル、全油種で四十万キロ売っていました。つまり、10/ℓ価格が下がると、ガソリンだけで70億円、全油種で400億円の損失を(価格是正が出来なければ)蒙ります。

 

 特約店レベルも大変です。需要家さんたち(特に黒もの油を使う)も大きな値上がりになりますから、収支に影響が出てきます。そんなにすんなりと値上げを受けるはずがありません。

 

 別に石油業界の歴史を説明するつもりはありませんが、幸民さんが、高橋社長→高橋会長へと進んでいく上で欠かせないものですから。

 

 丸高石油は、海のすぐそばにあります。かつお漁船にA重油を供給するためです。かつお漁船船には氷を供給するため大きな冷凍庫も持っていました。石油製品の自由化の中で、A重油の価格が問題になります。無理に価格を上げれば、かつお漁船の元締め全漁連や日かつ連(でしたっけ)から総スカンを食います。かといって上げなければ丸高石油が大赤字を食らいます。元売にも価格対応する力はありません。

 

 そんな時、幸民さんは、幹部から質問を受けます。価格をどうしたらいいかと。幸民さんは見事な経営の意思決定を決断します(内容は企業秘密)。つまり、どうしたらいいかという質問は、経営者以下の言葉です。「こうするけどいいか」なら、まだわかります。

 

 幸民さんの決断は、まさに幸民さんから高橋社長に変わる時でした。

 

 そう、これがオーナーシップ(当事者意識)なのです。高橋社長以外に誰も出来ない(しない)意思決定でした。

 

 その後は、「経営」の意思決定に対しては、誰も意をとなえることはしませんでした。逆に「事業」の意思決定は、どんどん求めて行きましたが。

 

 お別れ会は、令和三年十二月二十六日でした。ご遺体に少しでも早くお会いしたい私は、令和三年十二月十六日に葬儀場に会いに行ってきました。

 下は、何年だろう、恐らく昭和六十一年~六十三年に、安房(館山地区)の担当店二世の方々と、松崎の高橋さんの実家にみんなで旅行してお邪魔したときの写真です。ミカン狩りもしました。つづく

向かって左から参番目が高橋会長

向かって右から参番目が私(つまり会長の隣)



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このページは、宝徳 健が2022年1月 2日 09:45に書いたブログ記事です。

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