当時、禅宗寺院は宗教学問の場だけでなく、上流階級の社交場として使われていました。淨因のお饅頭は、肉食が許されない僧侶のために、小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮に包んで蒸し上げたもので、その画期的な甘味は寺院に集う上流階級に大評判となりました。
その後、饅頭屋は、林淨因の子孫が受け継ぎ、奈良・林家と京都・林家に別れて営業することになります。
1467(応仁元)年の応仁の乱。応仁の乱は京都を焼け野原にしました。戦乱を避けて京都を離れた林家は、親戚関係であった豪族・塩瀬家を頼って三河国設楽郡塩瀬村(現・愛知県新城市)に住み、姓を「塩瀬」に改めました。
再び京都に移った塩瀬は大繁盛、塩瀬があった烏丸三条通り下ルのあたりは当時、饅頭屋町と呼ばれました。この頃、8代室町将軍の足利義政より「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を授かり、時の帝、後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領しました。
それから100年後、時は"国盗り物語"の時代。塩瀬のお饅頭は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康に愛好されます。関が原の戦いで勝利をおさめた徳川家康の江戸開府に時代を同じくして、京都での繁盛も続く中、塩瀬の源譽宋需という者が江戸に移り、商売を始めました。
塩瀬と家康との関わりは、天正3(1575)年の長篠の合戦にて、七代目林宗二が「本饅頭」を献上した頃から始まります。元和元(1615)年の大坂夏の陣、家康は大坂方の将・真田幸村に攻めたてられて、あやうく一命を落とす瀬戸際がありました。そのとき、わずかな手勢を引き連れ逃げ込んだところが、林浄因が居を構えていた林神社でした。戦いの後、家康は林神社に鎧一領を贈りました。
代々「塩瀬」を家号として製菓につとめ、明治初年からは宮内省御用を勤めることになりました。戦後は、ブライダルの引き菓子として、そして現在さまざまなデパートに出店し、全国の皆様から多大なるご愛顧をいただいております。長い歴史を誇る塩瀬の暖簾は、今日もなお熟練した菓子職人が技と心で伝えています。
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