水沢腹堅(皇紀弐千六百八十二年 令和四年一月二十六日)

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 昨日、1月25日 から、大寒 次候 水沢腹堅 さわみずこおりつめる ですね。

 沢に氷が張り詰める頃です。

 寒さの日本記録は、この頃なのだそうです。明治35年1月25日に旭川で観測されがマイナス41℃です。
 
 明治35年の日本ってどんなのだったのでしょうか?

 調べてみるとなんとまあ、たくさんの事件があった年です。

 八甲田山死の彷徨が1月23日です。

 日英同盟が出来たのもこの頃です。

 英国は、力を持っていましたが、陰りが出てきた頃です。この時期ボーア戦争をしていました。アジアにまで手を伸ばす力はありません。でも、グレートゲームでアフガンを取り合った、ロシアにだけは、アジアを侵略してほしくありません。そこで日本に目を付けました。まだ、ひよこのような日本ですが、英国としても必死の思いで我が國にすがりました。もちどん、我が國の国力とロシアの国力と言ったら今の、日本と米国の比ではありません。

 御前会議で日露開戦が決まった時は、みんな恐怖で涙したそうです。そんな中で、明治の人間たちは、我が國日本を守ってくれました。
 そして、外交が凄い。小村寿太郎は、終戦にあたって、ヨーロッパ情勢を読み切り、樺太をとりました。

 ロシアは絶対に二方面では争そいません。1905年から始まったロシア革命により、終戦交渉は有利に進むと思った小村寿太郎は、アメリカが調停をするなか、大胆な交渉に臨みます。

 石井菊次郎といい、明治の我が國には、たいした外交官がたくさんいました。

 七十二候と全然関係ない内容になりましたね。全く関係ないわけではないか(笑)。彼らが護ってくれた日本があるから、まだ七十二候があるのですね。

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このページは、宝徳 健が2022年1月26日 15:23に書いたブログ記事です。

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