道元は、「倉にすむねずみが腹をすかしており、田をたがやす牛が腹いっぱい草を食べたことにがない」といいます。
倉にすむねずみは穀物を積んだ中にいるが必ずしも腹いっぱいでいるわけでもなく、田を耕す牛が草の中にいても、草を食べなければ腹をへらしているということでもある。人も子の通りである。人みな仏道の中にいながら、それを自覚しないために、仏道にかなった生活ができないのである。自ら仏道の真っただ中にいる気が付かず、ほかに悟りがあると思って、願い求める心がある間は、一生安楽に生きることはできないのである。
仏道に深くいたっている人の行いというものは、善行につけ、悪行につけ、それぞれ考えがあってやっているものである。他の人がおしはかることのできないももである。みな、恵信僧都は、ある日、庭先で草を食べている鹿を人に命じて打ちたたいて追い払わせた。
そこにいた人が、「あなたさまは、慈悲の心がないようです。なぜ、庭先の草を惜しんで畜生を苦しめるのですか?」と尋ねた。
僧都は、「私がもしこの鹿を打たなかったら、この鹿は人を怖がらなくなり、悪人に安心して近づいて、殺されるにちがいありません。だから、打つのです」を言われた。
鹿を打つのは、みかけは慈悲がないようであるが、心の内の道理は、慈悲の溢れていることはこの通りある。
さて、仏道に励むことを「辨道 べんどう」と紹介しました。
峰のいろ 谷の響きも 視なながら 我が釈迦牟尼(しゃかむに)の 声と姿と
道元は、寳慶二年(1226年)も天童山にあって辨道を深めました。そして、寳慶三年(1227年)に、如浄から嗣書を受けています。その真本が軸装で永平寺に伝わっているのです。
中央に釈迦牟尼仏の名があり、それを円形に囲んで、左下から時計回りに五十一名の歴代が記されています。禅の法系は、魔訶迦葉(まかかしょう)が
第一祖です。その魔訶迦葉からはじまって二十八列に有名な菩提達磨がいます。そして、五十一番目が道元なのです。すごいですね。
道元には、法華経と題されている歌が、前述の歌です。
道元は、寳慶三円(日本では嘉禄三年)の秋につ嗣書とともに明全の遺骨を携えて帰国しました。道元二十八歳です。そして、三十四歳で、京都南郊の宇治郡に興聖寺(こうしょうじ)を開創しています。
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