今だったら笑われるかも知れないですが、私が大学に入った頃にはこうでした。
そのカルチャーショックを語りますね。
今だったら半ぐれとか、素人の凶暴性があるので、怖いと思いますが、私は北九州でも育ったので、東京と言うのはどのぐらい怖いのかと思って、中学生の頃買った木刀を持って上京しました。使ったことはありませんよ(笑)。当時は、ステゴロ(武器を持たない)のが、男の喧嘩の矜持でしたから。多対戦のためですが、中学生では、多対戦なんかは格好つけて言うだけで、出来たものではありません。
でも、来てみると平和なんです。そして、「何やってんだよ、このやろう」という言葉を聞いたときには、みんなおかまなのかなと思いました。
次に街の広さ。新宿駅など、目標にしている別出口で出るともうどこにいるかわかりません。西口とか東口とか南口とか。それに、天神がたくさんあるような印象でした。新宿、澁谷、六本木、銀座などなど。もうびっくり。
大学の授業に行きました。確か、牧野先生の地学だったかと記憶しています。右三人ぐらいうこうに、同期生(学部は違うし話したこともない:当たり前)の紺野美沙子さんがいました。この世にこんなきれいな人がいるんだろうか と、田舎者の私は思いました。
毎日毎日、驚くの連続でした。でも、最初はあまりお金がなかったので、東京のだいご味は味わえませんでしたが。とにかくでかかった。それと、駅で、みんな乗り換える時、走るんです。まるで運動会でした。「なして、東京の人は駅で走ると?」と思いました。
家に帰って、母(亡母)に、「聞いちゃってん!今日くさ、新宿に行ったらで出口ば間違えてくさ、どこにおるとかいっちょんわからんめいが」とか「聞いちゃってん!今日くさ渋谷駅で銀座線に乗ろうと思ったったい。そしたらくさ、地下鉄のくせに四階から出とるとばい」とか「聞いちゃってん!今日くさ、授業ば受け取ったらくさ、右の向こうの方に、紺野美沙子さんがおるったい。あげなきれか人みたことなろうが」などと、報告していました。
「そうね」「そうね」と母はいつも笑顔で聞いてくれました。彼女は若い頃東京にいたのでそんなにカルチャーショックはなかったのでしょう。
さて、次回は、クラブの選択です。ラッシュの話しもしましょうかね。蠣にあたって電話に乗った話も。つづく
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