小澤征爾さん(皇紀弐千六百八十四年(2024年)二月十一日)2

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 世界的な大指揮者 小澤征爾さんがお亡くなりになられました。心より哀悼の意を表します。

 有名な本に中川右介さんの「至高の十大指揮者」というのがあります。その中の「N響事件」について今日は書きます。かなり端折っています。詳しく知りたい方は、ぜひ、この本をお読みください。
 昭和三十七年(1962年)六月小澤征爾さんはNHK交響楽団(以下、N響)の指揮者になりました。NHK交響楽団で海外公演も果たした小澤氏でしたが、この頃からN響との関係がギクシャクしてきます。

 小澤氏はまだ二十七歳の若さでした。他はみんな年配の楽団員です。それも東京芸大卒が多く、小澤氏を見下す雰囲気を醸し出していました。

 あるとき、N響楽員代表による演奏委員会が「今後、小澤氏の指揮するコンサート、録音演奏には一切協力しない」と言い出しました。楽団員は積極的に取材に王位、いかに小澤氏が無礼な若者で、音楽の伝統らないかを吹聴しました。でディアは、小澤氏を「海外で賞をとり、チヤホヤされて増長した困った若者」という論調んで揶揄し批判しました。

 メデイアとはいつまで経ってアホですね。

 さあ、これを救ったのが若い文化人たちでした、浅利慶太や石原慎太郎は小澤氏を救うために団結しました。

 浅利慶太と石原慎太郎は、MHKを巻き込んで戦線を拡大する戦術を取りました。「演奏会中止」をNHK側から言わせる様、NHKとの交渉の場であえて挑発的な生意気な態度をとり、曲目の変更、楽団員が協力する保障、NHKが遺憾の意をヒュ明する、の三条件を提示しました。NHKは感情的になり、定期演奏会と第九の演奏会の中止決定し通告しました。つまり小澤を切る宣言です。N響史上初の定期演奏会中止です。

 しかし、定期演奏会が予定されていた12月11日、小澤氏は会場の東京文化会館へ向かいました。小澤氏はひとりで楽団員を待っていました。その油種が取材に来た報道陣に撮られ、新聞は「天才ひとりぽっち」「指揮台にポツン」などの見出しで報じられました。

  石原慎太郎と浅利慶太が「誰もいないステージ」の場面で、小澤氏に「孤独な天才」を演じさせ、カメラマンを読んで撮らせたのでした。

  世論は一気に同情的になりました。「若き天才」「権威主義で一の悪い狭量な楽団員」がいじめている構図になりました。他の若き芸術家、文化人たちも「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、N響とNHKに対して質問状を出すなど社会問題となっていきました。

 昭和三十八年(1963年)一月十五日「小澤征爾の音楽を聴く会」と言う名称で、演奏会が。j日比谷公会堂で開かれました。聴衆は熱狂的な拍手を送りました。

 三島由紀夫は翌日の新聞に熱狂にこたえ道 小澤征爾音楽を聞いて」とエッセイを書きました。

 小澤氏は、17日に黛敏郎らの仲介でMHKを和解しました。訴訟を取り下げると言う意味で、N響には復帰しませんでした。


 これが有名な「N響事件」です。小澤氏は日本を離れてよかったので。すでにカラヤン、パーンスタイン、ミュンシュという大物の後ろ盾、最強マネジメント会社つきました。NHKと妥協して復帰していれば、世界の小澤」は存在しなかったのです。日本にいる必要などなかったのです。

 我國はとても良い國なのですが、一部の人間がその団体を利用してすぐに利権化し、そして若者の成長の芽を積んでいきます。さあ、新しい時代がもう来ています。不易流行を大切にしながら、若者たちが自由にのびのびと成長できる社会づくり我々の年代が力を入れる時がきました。

 ただし、自由に力が入ります。「楽をして生きていたら」、自由を手に入れることはできません。「広南何時を玉にす」で、困難を乗り越えていく力を養えば、自由に多様に生きることができ「楽しい」生き方を想像できます。

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このページは、宝徳 健が2024年2月11日 08:06に書いたブログ記事です。

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