今日は、亡父の命日です。令和三年三月十日水曜日でした。最後は眠るように亡くなったそうです。享年九十四歳でしした。
寳德 健(私)
寳德 佳男(父)
寳德 義一(ぎいち:祖父、祖母はツイ)
寳德 寳四朗(ほうしろう:妻は、つる)
寳德 惣四朗(そうしろう:妻は、かの)
唱和二年(1927年)七月一日生まれ。大日本帝國海軍甲種飛行兵愛14期で終戦は松山航空隊で迎えました。なんと十八歳の若さで260名を率いる専任伍長だったそうです。上官に部隊のことを怒られたらケツバットが待っていました。それでも絶対に部下の責任にしなかったそうです。「自分の管理の能力がないからだ」と思ったそうです。大東亜戦争に志願兵をして参加した時に、「ああ、おれの代で寳德の家は耐えるのか」と思ったそうですが、終戦になり、私が生まれ、息子が生まれました。それを一番喜んでいました。
今日から少しずつ同じの命日を機会に親父の人生や宝徳家のことを振り返ります。
我が家を遡るとこうなります。
寳德 真大(まさひろ:息子)寳德 健(私)
寳德 佳男(父)
寳德 義一(ぎいち:祖父、祖母はツイ)
寳德 寳四朗(ほうしろう:妻は、つる)
寳德 惣四朗(そうしろう:妻は、かの)
寳四朗までは、今の本籍 福井県丹生郡越前町玉川でわかるのですが、惣四朗からは、苫前に行つて、原戸籍をとらないと遡ることができません。亡父の生前、親子三代でルーツを探る旅にでようと話していたのですが、かないませんでした。
父から、孫の息子に宛てた手紙を紹介します。
□宝徳 佳男から見た系譜
●曽祖父母(寳德 惣四朗・かの)は、北海道苫前郡苫前村第22番地に本籍を置いていたので、それ以前のことは(現)苫前町に寳德惣四朗を筆頭者とする原戸籍(はらこせき)を請求しなければわからない。
●明治36年1月13日、長男、寳德寳四朗(祖父-明治8年2月1日)が、福井県丹生郡上岬(かみさき)村玉川第38号45番地に戸籍を定めている。
●祖父・寳四朗を戸主とする原戸籍をみると本籍地は、福井県敦賀郡敦賀町津内183号21番地となっている。
※敦賀町は、昭和12年4月1日に敦賀市となった。
「北前船」の交易商だった寳徳のご先祖は、福井県から北海道に移ったのだろう。「〇に十(島津家の家紋と同じ)の船」は、北海道(苫前)~敦賀(いずれも日本海沿岸)とたどるから、再び福井に移り住んだのではないかと思う。ひところ北海道の国鉄の駅に「幸福」があり、ブームになったことがあったが、「福」は福井県出身者が住んだところだ。
明日は何を書こうかなあ。
□宝徳 佳男から見た系譜
●曽祖父母(寳德 惣四朗・かの)は、北海道苫前郡苫前村第22番地に本籍を置いていたので、それ以前のことは(現)苫前町に寳德惣四朗を筆頭者とする原戸籍(はらこせき)を請求しなければわからない。
●明治36年1月13日、長男、寳德寳四朗(祖父-明治8年2月1日)が、福井県丹生郡上岬(かみさき)村玉川第38号45番地に戸籍を定めている。
●祖父・寳四朗を戸主とする原戸籍をみると本籍地は、福井県敦賀郡敦賀町津内183号21番地となっている。
※敦賀町は、昭和12年4月1日に敦賀市となった。
「北前船」の交易商だった寳徳のご先祖は、福井県から北海道に移ったのだろう。「〇に十(島津家の家紋と同じ)の船」は、北海道(苫前)~敦賀(いずれも日本海沿岸)とたどるから、再び福井に移り住んだのではないかと思う。ひところ北海道の国鉄の駅に「幸福」があり、ブームになったことがあったが、「福」は福井県出身者が住んだところだ。
明日は何を書こうかなあ。
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