道元の和歌13(皇紀二千六百八十四年 令和六年(2024年)四月十二日)

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 道元は、「仏道では『命を惜しんではいけない、命を惜しまずそまつにしてはいけない』」と教えます。

 調子が悪ければ、お灸の一か所もすえ、病状に合わせて薬の一種類など服用することは、仏道を行じる邪魔にもなりませんが、仏道を行じるのをやめてまで、病気を第一に考えて、病気がなおってから修行をしようと思うのは、仏道の妨げ出てあるとします。

 道具を揃えてから仏道をしようとかもだめだと。そんなものはなくとも仏道は行じることができるとも。

 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)ですね。武道の最高境地です。
※行住坐臥:普段の生活で行う最も基本的な動作のこと。そこに訓練が発揮できなければ意味をなさない。行:歩く、住:止まる、坐:座る、臥寝る

 さて、道元は、宋では、天童山景徳禅寺の門をくぐっています。栄西も参学したことのある禅寺です。

 黙々と続ける坐禅によって悟りを目指す禅の修行法です。「黙照禅」といいます。

 ちなみに、臨済宗は公案を工夫する所に悟りを得ようとします。「看話禅(かなぜん)」と言います。

 道元は、この禅寺で多く事を学びます。

 仏道修行に専心することを「辨道 べんどう」と言います。

 また、この禅寺の第一の修行僧のことを「首座 しゅそ」と呼びますが、道如 どうにょ という首座は、高名な官人の子息であるにも関わらず、衣服のやつれなどがひどいのです。道元がその身の回りの質素さを問うと、道如は、「僧となればなり」と答えます。

 この禅寺では、また、修行僧の食事を担当する役職を典座(てんぞ)と言います。真夏の昼時に典座が、仏殿のそばで岩のりを干していました。背の曲がった六十八歳の老僧なので、炎天下の作務はあまりにも過酷です。道元は見かねて声を掛けます。「そのような作務は、寺男にお任せになっては?」

 老僧は答えます。「他はこれ吾にあらず」と。

 では、せめて炎天下をお避けになってはと言います。

 老僧はまた答えます。「更にいずれの時をか待たん」。岩のりは、炎天下によしてこそおいしくなります。これを典座教訓といいます。

 本当にいろいろなことを学びます。行住坐臥で。

【今日の私の和歌です】
歩く止まる 座る寝るなど いふことを 修行ととらへる 行住坐臥

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このページは、宝徳 健が2024年4月12日 05:53に書いたブログ記事です。

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