小説ホワイトハッカー純情2(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)四月十五日)4

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ど素人高齢者の挑戦

 今日から、私が75歳でホワイトハッカになるまでの3,416日(本日4月15日も含む)。

 なんと私がホワイトハッカーになるまでには、こんな関門が待ち構えています。

 ひぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!

 情報システムど素人の高齢者の私は、まず、基本情報技術者試験(FE)と情報セキュリティマジメント試験を通り抜け、次にITパスポート試験と応用情報技術者試験を通り抜ける必要があります。その後、その上の赤い幾つかの試験に合格し、最後に「情報処理安全確保支援士試験」んび合格し、そして、ホワイトハッカーの入門試験とも言える「情報処理安全確保支援士(登録セキスペ)に合格してやっとホワイトハッカーのスタートです。それに私の最終目的はCETというアメリカの資格です。これを約3,400日でやる。プラス他の中小零細企業を取り巻くリスク対応能力を磨く・・・・・。

 面白いじゃん。やってやろうじゃん😭。まあ、私は、小さい時から喧嘩を売ったことはありませんが、売られた喧嘩は買わなかったことがありません。どんなに負けても(誰も喧嘩を売ってないっつうの)。

 さあ、このいじっぱりの寳德は、どこからできてきたのでしょうか?
 「おれホワイトハッカーになるけん」と健は言いました。

 寳德には、とても優しくとてもアクティブな素敵な女性秘書がいる。でも、なぜか寳德だけにはとても厳しいのだ。この時も、

秘「へーーー、すごいじゃん。応援するから頑張って」とはいうものの心の中では「(また始まった。ホワイトハッカーなんて難関な資格がとれるはずがないでしょう。歳はいくつだと思っているの?一生夢見る高齢者でいたいわけ?まあ、いいわいつものこと。反論しても仕方がないから)」と思っていた。

 産声をあげて産まれなかった健は、お産婆さんの機転によってこの世に生を受けた。幼少期はとても弱い子で、いつも、母 汎子のスカートを掴んでは、ビービーないていた。

 父 佳男と母 汎子は、「この子は大人になるまで生きられないかもしれまい」と話した。佳男は汎子に言った。「大人になるまで生きられないなら、健には好きに生きさせてやりたい。間違っても俺たちが、可愛がりすぎて、守りすぎてなよなよした子にはそだてたくない。いいか、汎子」

 昭和33年当時、まだ日本は貧く、男は懸命に働かなくてはならなかった。有能な女性も社会に出て活躍し、家を守りたい女性は、必死になって子を産み子を育てた。子供が怪我をすると、帰ってきた佳男に汎子が「不行き届きですみません」と謝る時代であった。

 寳德家も例外では無く貧しく、加えて祖母 ツイ、伯父である治、母、一美(健の姉)、健、そして、後に生まれる妹の幸がいたため、貧しい生活を強いられていた。

 その弱い健を、なんとか強く育てられないかと考えたのが母 汎子であった。

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このページは、宝徳 健が2024年4月15日 14:55に書いたブログ記事です。

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