観音経8(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)四月十九日)2

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次の文です。このブログは私の観音経暗誦のために書いていますので、お読みいただかなくても大丈夫です。


若為大水所漂稱其名号即得淺處
にゃくいだいすしょひょうしょうごみょうごうそくろくせんじょ)

若し大水に漂わされんに、其の名号を称せば即ち浅き処を得ん。

 水の難への功徳です。とえ大海大水の中で溺れ漂よったとしても、観世音菩薩の名号を称へれば、種々の方便によって即ち浅き処に救い出されるのです。

  繰り返します仏教の素人が言う言葉ではないかもしれませんが、仏教は自分の中に宇宙があるという内観を求めます。欧米の宗教のように、そとにいる神に身を委ねません。
 
 なので、観世音菩薩も、自分の中に実はいるんです。それに気づけば七難も避けられると教えます。決して、他にたよれということではありません。東洋の仏教の勝ちですね。

 宗教ではありませんが神道はその宗教さえいらなくしています。すごい!

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このページは、宝徳 健が2024年4月19日 04:21に書いたブログ記事です。

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