小説 ホワイトハッカー純情11(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)五月五日)4

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 産声をあげて産まれなかった健は、お産婆さんの機転によってこの世に生を受けた。幼少期はとても弱い子で、いつも、母 汎子のスカートを掴んでは、ビービーないていた。

 父 佳男と母 汎子は、「この子は大人になるまで生きられないかもしれまい」と話した。佳男は汎子に言った。「大人になるまで生きられないなら、健には好きに生きさせてやりたい。間違っても俺たちが、可愛がりすぎて、守りすぎてなよなよした子にはそだてたくない。いいか、汎子」

 昭和33年当時、まだ日本は貧く、男は懸命に働かなくてはならなかった。有能な女性も社会に出て活躍し、家を守りたい女性は、必死になって子を産み子を育てた。子供が怪我をすると、帰ってきた佳男に汎子が「不行き届きですみません」と謝る時代であった。

 寳德家も例外では無く貧しく、加えて祖母 ツイ、伯父である治、母、一美(健の姉)、健、そして、後に生まれる妹の幸がいたため、貧しい生活を強いられていた。

 その弱い健を、なんとか強く育てられないかと考えたのが母 汎子であった。

 健は身体が弱いのもののいたずら心は多分にあった。
 前にも書いた母の兄 舜一が九州から大阪の我が家に遊びにきた。その時に、舜一はある光景を観て不思議に思った。襖の一部に丸く大きな穴が空いているのだ。なんだろうと思っていたら、その向こうから、健が穴の向こうからこちらに向かって飛び込んでくるのだ。

 健の自由にさせるという佳男と汎子の教育方針そのままであった。襖に大きく穴を開けるなど、今の、家庭の常識からすれば考えられないことである。

 子供時代は、佳男の仕事の都合で、豊中で生まれ、ニ歳の時に枚方市牧野に移り住み、そして、静岡県駿東郡裾野町(現 裾野市)に移った。当時はまだ大気が澄んでいたので、よほどの悪天候でない限りは富士山が目の前に観えた。

 自然も素晴らしく、至る所で富士山の湧水が出ており、遠足の時でも水筒を持って行かなかった。御殿場線はまだ電化されておらず、スイッチバックさえあったくらいだ。

 汎子の病気はここで発症し、そして、一気に悪化した。最初は町医者で「風邪ではないか」と診断されそのままにしておいたところどんどん悪化してくるので、大きな病院にでセカンドオピニオンをもらったところ「リウマチ」との診断だった。それでも祖母のいじめは凄まじく、結局「全身リウマチ」にまですすんだ。このころ、汎子は、長女の一美に、預金通帳や大切なものがどこにあるかを教えていた。このままでは死んでしまうということで、佳男と離婚して郷里である福岡県遠賀郡芦屋町に帰ろうとしたのだ。

 これをに告げると佳男は「俺は家族と別れて住むことは考えられない」となんと会社をやめてしまったのだ。その頃の佳男は、仕事熱心だったこともありかなりの収入があった。それを捨てるというのだ。

 佳男は、ツイ(健の祖母)にもそのことを告げた。佳男の兄弟で結婚している男は二人。そのどちらかに行ってくれと。ツイは両方ともから断られた。なんと、仕方なく九州へついてきたのだった。

 小学校三年生の一学期から転校したのだが、生徒は皆、運動能力は高く、情緒ある土地で育つと、感性豊かに育ち能力も高くなるという定説通り、非常に優秀な生徒たちがそろっていた。私が初恋をしたのもこの頃だった。YSさんだが、告白せずに終わった。本当は小学校一年生の時にも好きな子がいたのだが名前は覚えているが、どんな子だったかを思い出せない。

 とにかく自然と遊ぶのは楽しかった。山に登って夏は芝スキーや魚釣り、秋は山いちごやあけびや栗などの自然の恵を手に入れて食べていた。春は、ぜんまい、蕨、こごみ、よもぎなとをとり。冬になって雪が降ると自分たちで小さなゲレンデを作り、竹を切って簡易スキーを作って遊んでいた。お金などほとんど使わなかった。


 2年と数ヶ月の後に、福岡県遠賀郡芦屋町という、ほとんどが福岡県教職員組合のどんぐされ先生であるのと、生徒たちもかなり悪い芦屋小学校に6年生の始業時から転校した。

 この芦屋小学校とその後の芦屋中学校の経験から学んだことは

力なき正義は正義にあらず

ということだった。

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このページは、宝徳 健が2024年5月 5日 07:23に書いたブログ記事です。

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