小説 ホワイトハッカー純情12(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)五月二十日)3

| コメント(0) | トラックバック(0)
  力なき正義は正義にあらず

 それが、健が、福岡県遠賀郡芦屋町立芦屋中学で学んだ唯一のことだった。

 一部の先生を除いて勉強なんかは芦屋中学で教えてもらうことは何もなかった。一度、塾に通ってみたが、問題集を解くだけである。こんなの自分でできると考え、一日で辞めてしまった。

 その中に健の叔父も(叔母 雅子の配偶者)いた。S先生がいるた。私が小学校六年生の担任だったが、この人が、左翼思想ばりばりで、どうしても好きになれなかった。主だった小学生を自宅に招き習字を教えていた。健も無理矢理参加させられたが、すぐに辞めてしまった。小学校の卒業式の時に、クラスのみんなにS先生が「色紙に好きな文字を書いてあげるから、その好きな字を渡しなさい」と言ったので、「勝利」という字を健は書いた。書いたものが返ってきた。色紙には別の言葉が書かれていた。そしてS先生が言った。「君はもっと穏やかになったほうがいいのでこの字に変えておいたから」。健はこう返した「それなら、好きな字を書くなんてことを言わなければよかったのではないですか?」 そして、その場で色紙をゴミ箱に折って捨てた。

 ただ、健は人生で生活習慣や勉強習慣が乱れた時に、必ず、何人かの先生が健を救ってくれた。静岡県の裾野小学校四年生のときは、高橋一三先生である。授業中ちょっとふざけた時に、大目玉を食らった。そして次の日からそれを改めたら、「お前は、昨日と全然違うな」と言われ、転校する時には、貴重な品もいただいた

安倍川まで御殿場に住んでいらっしゃった高橋先生が石を取りに行ってくださって、磨きそしてニスを塗ってくださった。その台座の裏にこれを書いてくださった。



 また中学一年の時に担任だった原先生。
  健がある試験で成績を大幅に落とした。すると、原先生は放課後に健を理科室に呼び出した(原先生は理科の先生だった)。その際、原先生は、「お前はこんな成績を取る子ではないんだ。成績もそうだが最近、生活習慣が悪くなっていないか?」と2時間に渡り説教をするのではなく、わんわん泣きながら「先生は悲しい」と言ってくださったのだ。原先生は私に、

周りの環境がどうでも、白けてはいけなんだ

という考え方を刷り込んでくださった。福岡県教職員組合の出鱈目な多くの先生にかなり白けていた健は、原先生がいなかったらどうなっていたんだろう。

人生は全て自分が選択した自分の責任なんだ

ということを知った。父 佳男がその時、とてつもない苦しみを味わっていたことを子どもたちはその時、気づいていなかった。

 ホワイトハッカーの勉強は実は遅れている。生活習慣づくり&仕事&ホワイトハッカーの学習の3つの習慣を健が作りきっていないからだ。

 でも、この習慣をつくりさえすれば自分は成長できると健は考えた。

 過去を振り返りながら。あの環境の中で、それのせいにしないで自分で生きたではないか。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/9389

コメントする

カテゴリ

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2024年5月20日 04:37に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「観音経(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)五月二十日)2」です。

次のブログ記事は「明治大帝の御製(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)五月二十二日)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。