小説 ホワイトハッカー純情13(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)五月二十三日)4

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 ここで一度 父 佳男のことを何回かに分けて書いておく。祖父 儀一が北朝鮮に職をみつけたため、家族は移り住んだ。寳德家は、代々 福井県丹生郡越前町で北前船を営んでおりかなり裕福だった。祖父 儀一も福岡県小浜市の小浜水産高校に進学した。水産高校は当時日本では3校しかなく、かなりの名門であった。今は若狭高校に吸収されたが、それでも、水産高校の練習船雲龍丸はいまだ、7代として残る。初代は大正八年(1919年)である。

 祖父 儀一はかなりのヤンチャ坊主で、雲龍丸で宴会をする先生たちに芸妓さんたちを船で伝馬船で運ぶ時、わざと落としたという逸話がある。

 弓道は連枝の腕前である。ハイカラな祖父で、当時は珍しい写真も撮っていた。ところが、祖父 儀一が小浜水産高校在学中、寳德家の北前船が3隻同時に沈没してしまったのだ。寳德家没落の始まりである。

 健が子供の頃、家には儀一の写真が飾ってあった。眼光鋭く、とても二十代の写真には見えなかった。昔の男は大人だったのだ。写真? 祖父は、ソ連のシベリア拉致(抑留と世間は読んでいるが適切ではない)で帰ってこなかったのだ。

 枠が軍隊に入っていた佳男 上左 伯母 敏子
上中央 儀一 上右 叔父 正是 下左 末弟 治  下右 叔父 孝


 治が生まれていない時の寳德家
 祖父 儀一の父 佳男に対する教育は厳しかった(父は長男だった)そうだが、健はあまり知らない。ただ、祖父をシベリア拉致で亡くしている父は、祖父のことを語る時はとても嬉しそうに話していた。

 ひとつだけの佳男の後悔は、祖父が佳男を旅順工科大学に入れるために、よい給料をもらっていたところを辞めて、退職金でそのお金を準備したのに、佳男が予科練に入ってしまったことだ。


 おそらく十五、六で予科練に入隊している。この写真は、佳男が十八歳の時である。昭和二年生まれの佳男であるから二十歳と推測される。専任伍長として260人の部下を率いていたそうだ。

 体罰は陸軍より海軍のほうがきつい。部下に落ち度があるとそれは専任の罰となり、ケツバットで殴られるそうだ。何度も。しかし、生前 佳男は健に言った。

 「おれは部下は一才恨まなかった。すべて俺の管理能力の無さだと思って体罰は当然だと思った」と語った。

 帝国海軍航空隊 甲種飛行兵14期である。

 あと1週間敗戦が遅れていたら特攻隊に行っていたと佳男は語る。

 「死ぬのは怖いだろうなあ。でも、俺が死ねば家族も國家も助かるんだと思っていた。そのことに今も悔いはない。いいか、健、そういう精神文化もかつての日本にはあったんだということを後世に正しく伝えてくれ」








「健、俺はなあ、そのために日の丸を腹に巻いて死ぬ覚悟をしたんだ」

その夢は、佳男が九十四歳で死んだ時にかなった。

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このページは、宝徳 健が2024年5月23日 19:54に書いたブログ記事です。

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