李下に冠を正さず(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)八月二十七日)2

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 支那人は、いつも理想を語ります。古典を読んでも「それは理想だけど支那人はそれをやっていないやん」と思います。

 なぜかわかりますか? その理想論を実行すると「殺される」からです。

 それに漢民族というのは、春秋戦国時代に9割死んでしまっていますし、漢民族がの支那大陸を支配したのhは、漢・明・今の支那共産党しかありません。その間、漢民族はずっと奴隷の身分でした。

 だから、人に取り入る文化しかありません。

 たまみすごい人間がでくるのですが、彼らはみんな殺されています。

 閑話休題。

 その支那人がかつて「李下に冠をたださず」という理想論を作りました。

 李は美味しいのでその下で冠を正すと李をとったように疑われる。という意味です。

 兵庫県の齋藤知事は、最初期待したんですがねぇ。この「李下に冠をたださず」から言うと、もうダメでしょうね。早く辞任した方がいい。

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このページは、宝徳 健が2024年8月27日 05:57に書いたブログ記事です。

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