日高見國(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)九月十日)2

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  子供の頃、九月一日は二百十日、九月十日は二百二十日と教えてもらいました。小学生の時です。まだ、しっかりした師範学校出の先生もいたころです。

 立春から数えて二百十日と二百二十日ということですが、台風がよく来る日だとも教えてもらいました、私たちは、天気図で育ちました。単位もヘスとパスカルではなくミリバールでした。だから、最近の天気のニュースは天気図を出さずに、気象雨予報士が解説する画面で教えられるのでちっともわかりません。これって、小さな親切大きなお世話ですよね。

 子供達はとても知的好奇心を持ちます。その知的好奇心を妨げているのは大人です。大人が日教組の教育でわからなかったことを、今の、子供達には教えまいとしています。もっと勉強しとけよ。知的好奇心を持てよ。

 閑話休題。我國が、世界で唯一歴史が連続した人間社会の奇跡の國だというと、びっくりする人がたくさんいます。欧州は? 支那は?と。彼等は國家の概念など持っていませんでした。その考え方ができたのは、せいぜい約300年ぐらいです。こちらでいうと江戸時代。日本は何千年何万年です。

 士魂商才第百二十六号に「日高見国」の記事を載せました。ご覧下さい。
日高見國(ひだかみのくに)

 毎朝、朝のおつとめで昌和している「大祓詞(おおはらえのことば)」に「大倭日高見國(おおやまとひだかみのくに)」という言葉が出てきます。これが世界で唯一歴史が太古の昔(何千年前)から続いている人間社会の奇跡の國 我國日本の原型です。欧州では国家の概念が出てきたのでさえ、せいぜい凡そ300年ぐらい前でしかありません。支那? 私がなぜ「支那」という言葉を使っているかをご説明しましょう。学校で、殷・周・秦・漢・・・と習いましたが、本来は歴史の主役になりたい漢民族は春秋戦國時代で九割滅びています。そして、漢民族は彼らがいう四千年の歴史の中で、漢・明・支那共産党(現在の)以外の数千年は、周辺諸国の奴隷でしかありませんでした。それどころか、周辺民族が征服に来ると、当の漢民族が両手を挙げて喜んだのです。支配者が漢民族だと、ものすごい暴政が始まるからです。

 

 なので、支那大陸の古典では、「人間はこうあるべきだ」という理想論ばかり書いてありますが、絶対に実行しようとはしません。これまでの歴史の中で、もちろん素晴らしい人物も出てきていますが、たいていの場合、実行しようとすると殺されてしまうからです。世界唯一、日本だけが、虐殺・拷問・纒足(てんそく)などの、悪を排除し、その「こうあるべきだ」という理想論を実行しようと努力しました。なので、支那大陸には國家の概念などないのです。今でも。今のロシアが「私たちの國を今でもソ連と呼べ」と言っているようなものです。今、支那大陸にある國を中國と呼べというのと同じです。支那共産党でも十分なくらいなのに。

 

 我國は、支那がほんの少しでも関わると國家的一大事が起きてきました。歴史上支那から離れた時が一番幸せでした。例えば菅原道真が殺し合いばかりやっている支那に呆れて遣唐使を廃止しました。我國には、ものの見事に平安文化が咲き誇り、紫式部や清少納言等が女流作家となりました(当時、欧州でも支那でも、女性が小説を書こうものなら殺されていました)。

 

 さて、世界最古の國 我國日本は、彼らよりも永い歴史で、國をどう形作っていったのでしょうか?もちろん、様々な困難を乗り越えました。まずは、そこから説明します。少しずつ。

 

 お断りしておきますが、我國の「歴史学者」は信じてはいけません。彼らはイデオロギーの塊です。ある時、支那とは比べものにならない古い遺跡が我國で発見されました。その遺跡を証明するものを入れた倉庫が夜のうちに何者かに燃やされました。推して知るべし。

アフリカから出発した人類が、東の太陽の上る國とはいったいどこなんだろうと考え日本列島に向かったのは、石器時代からでした。最初に、海でアジアに向かいました。おかしいな、海で渡れるのだろうかとお考えですよね。その時代は、氷河時代であったので、比較的温暖な海に出たかったと考えたからです。しかし地球の温暖化とともに、人々はユーラシア大陸を歩き始め、横断してでも日本にたどり着こうとしたのです。中東で止まる人々が、エジプト、メソポタミア文明をつくりました。しかし、太陽を頼りに、船に乗って、太陽の出る国を目指した人も大勢いました。

 

 縄文時代、日本の人口は90パーセント近く、関東、東北、北海道に住んでいました。このことは,遺跡の数から確認されています。その中心が青森県の三内丸山遺跡です。そして、それらの人々は、会った時に勾玉(まがたま)を見せることで仲間と意識していたのです。日高見国の名前は,そこから生まれました。日が高く上るのを見る国から、日が高いところから下を見る国、つまり「お天道さま」が上から見ている国になったのです。

 

そして海岸側に住むより,川を上って,山の幸がある内陸に住むことを好みました。河川沿いに住んでいる人々、縄文海進の中で,海岸に住む人々、こうした太陽の上るのを見ることができる地方に住み着きました。「お天道さま」が見てくださることには変わりはなかったからです。 私は、子供の頃悪いことをすると母から「お天道さまが見ていますよ」と諭されました。日本文化の根本ですね。この時期の日本には、対人攻撃用の武器がありませんでした(出土していません)。海から来た人たちは、山に住んでいる人たちの生活に憧れて溶け込んでいったのです。

 

 では、この話が、どうやって、日本書紀や古事記や今の日本につながっていったのでしょうか? 来月をお楽しみに。

 

 ちなみに北上川(日高見川)、日高川、飛騨、多賀城(日高見)、穂高、地方に日高神社がある、というのはすべて「日高見國」であったことが示されています。かなり広い範囲ですよね。

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このページは、宝徳 健が2024年9月10日 09:05に書いたブログ記事です。

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