今日は、亡母の誕生日です。寳德 汎子(ひろこ) 昭和七年九月十二日生まれ。平成七年七月十日没。享年六十二歳。あまりにも早い一生でした。
普段は信じられないぐらい優しい母でしたが、私が、日本男児として情けないことや悪いことをすると、烈火の如く怒りました。我が親族は、私が高校生になるぐらいまで、親戚中に(つまり私のいとこ)男の子がいませんでした。母は長男の嫁です。私が、生まれた時にはそれは喜んでくれたのでしょう。でも、私は、産声を上げて生まれてきませんでした。お産婆さんが機転を効かせて私の両足首を持って往復ビンタをしました。それでやっと産声を上げたのです。
体が弱く、父と母は「この子は大人になるまで生きられないだろう」と思ったそうです。なので、少々のやんちゃは許そうと二人で話し合いました。
だから私は身体中、怪我だらけです笑笑。
小学校四年生の時(静岡県駿東郡裾野町:現裾野市に在中)に、自転車で「ドリフト〜」と言いながら乗っていたら転んで、左の膝の下がぱっくり開いてしまいました。今でもその傷があります。
家に帰って「ゲガした〜」というと、姉が「またね!」と言って出てきました。私の傷を見た瞬間に姉の顔が真っ青になりました。きっと骨まで見えていたのでしょう。当時は、母の病状が最も悪化した頃でした。それでも、母は、私を病院まで連れていきました。裾野の鈴木医院です。まだあるようです。
そこで洗浄をして麻酔をかけようとするのですが、麻酔が効きません。しかたなく縫うことになりました。結果として12針縫ったのですが、縫っている最中はそんなことはわかりません。今でも覚えているぐらい強烈な痛さが身体中を走ります。病気でふらふらになっている母は、私の枕元に立ち「あなたは男でしょう!!! 泣いたら承知しないからね!!!」と、結果として12回叫んでいました。痛さもあったのですが、しんどい母にそんなことをさせたことで罪悪感でいっぱいです。
姉に子供が産まれました。男の子です。母が姉に言いました。「あのね。男の子はその日のうちに生きて帰ってくればそれでいいのよ」と。あとでそのことを姉から聞いた私は汗顔の至りです。姉からは、「あんたどんだけ心配かけたかわかっとると」と。今でも、会ったらそれを私に言います。
母がしんどそうな時、家事を手伝おうとしました。大学生の時です。すると母は「あなたは男でしょう。これは私の仕事! あなたには男としてもっと他にやることがあるはずです。私に恥をかかせないで!!!」と怒られました。
母は、中学の頃学年で成績が一番でした。地域で一番の高校を受ける予定でした。受験の当日(私からみると)祖父と祖母から「お金がないから合格しても行かせてあげられない。今日は、受験をしないでくれ」と言われました。なかなか受験に来ない母を心配して先生が迎えにきます。「秋武(母の旧姓)! 今からでも間に合う、先生が自転車の後ろに乗せて連れて行くから出てこい!!!」と叫びます。 母は、風呂桶の中に隠されて、祖母が出ていきます。「汎子は今、出かけています」と言いました。母は風呂桶の中で涙を堪えていたそうです。
でも、すごく明るい母でした。この話は朝鮮からの引揚話と共に何度も母から聞きました。教育ママではなかったのですが、辞書の引き方、手紙の書き方、鉛筆の削り方、文章の推敲の仕方、靴の揃え方など、それらを身につけておけばかならず一人で勉強ができるようになることがらを教えてもらいました。
とにかく、母が若い頃は、「お母さんはいったいいつ寝ているんだろう」と思うぐらい家のことをし、その中で私たち姉弟妹に勉強を教えてくれました。英語もとても上手でした。タイプも打てたので私が中学の時に教わりました。
母の自慢は、自分が出光興産株式会社に勤務の時、四畳半ぐらいの窓もない部屋に押し込められて、訳のわからない暗号電文を打たされたことです。家に帰れなかったそうです。1週間後に倒れたそうです。当時の出光興産株式会社は二十歳の女の子を1週間拉致する力があったのです。でも、母は、一切出光を恨んでおらず、私が出光興産株式会社への入社が決まった時にとても喜んで「出光はね、残業すると天丼が食べられるんだよ」と言っていました笑笑。
そうです。あの有名な日章丸事件の時に、日章丸に暗号電文を打ち続けたのは、私の母なのです。マスコミが「日章丸はいずこ!」と騒いだ時です。日章丸からは電文が打てません。位置がわかってしまいイギリス軍艦に拿捕されるので、日章丸から電文を打てないのです。
出光佐三店主が日章丸が川崎港に着岸した時に「我、俯仰天地にはぢず」とマスコミに言ったそのあと、アングロイラニアン(イギリスの石油会社)との国際裁判になります。出光側の柳井弁護士の活躍で、アングロイラニアンが窮地に陥り、自分のところのタイピストが休みだから休廷にてくれと裁判長に頼みます。すると、柳井弁護士が、「当方には優秀なタイピストがいるから貸しましょうか」と言いました。アングロイラニアンは返すことばもありあません。その優秀なタイピストが母です。母は女子社員として一人だけ日章丸に上がり新田船長にも会わせてもらったみたいです。
敗戦で打ちひしがれていた国民は湧きかえります。出光興産株式会社に激励の手紙やファックスがたくさんきます。店主室という部署に保管されていたので、母が、亡くなる前にそれを全部コピーして母が入院している病院に持っていきました。母は「私の一生は無駄ではなかったのね」と言って亡くなっていきました。
まるで、武士のような生き方です。いや、女性ですから婦道ですね。武士道よりよほど強い。婦道が情けない男を活かす時代でした。
亡くなった時に、家族で遺品わけをしました。でも、遺品が何もないのです。すべて家族のためのものばかり買っていたのです。
姉が父に怒りました。「着物の一つも買ってやらんね!!!」
こんな時代もあったのだよ。令和を自慢しながら生きる諸君。
お母さん、産んでくれてありがとう。いつか会おうね。このままそっちにいったらまたすごく怒るだろから、後、二十年は待ってね。
もう一度。
産んでくれてありがとう
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