これに慌てたのは日本の外務省でした。米国との関係悪化を恐れるあまり、海軍を通じて東郷に引き渡しを指示しました。やがて日本の領事館員が邦人青年を引き取るべく、艦長室を訪れました。
そのとき東郷平八郎は言ったのです。
「犯罪人であれ同じ日本人ではないか。その同胞が救助を求めてきたのを、おめおめ引き渡すのは心外だ。自分は彼を(クーデター政府の)獄吏に引き渡すのではない。(日本人である)あなたたちに引き渡すのである」
たまりませんね。これを国際人と言います。相手の顔色を伺って、妥協するのが俗にいう「海外を知る」ではありません。
翌年の夏、日清戦争が勃発しました。ここでも東郷平八郎は開戦早々、國際法をたてに果断な将器をみせます。
明治27年7月25日、朝鮮半島中部西側の豊島沖で、日本海軍連合艦隊の軍艦3隻が清国海軍北洋艦隊の軍艦2隻と遭遇。宣戦布告を待たずに砲撃戦が交わされました。北洋艦隊の1隻が白旗を掲げながら逃走、残りの1隻は浅瀬に乗り上げて座礁、自沈しました。。
この海戦の最中、清国兵を満載したイギリス商船が近づいてきた。日本としては厄介な事態です。清国兵を通すわけにはいかないが、うかつに対応すれば世界最強の海軍国、大英帝国を敵に回しかねません。
この難局の処理にあたったのが、浪速艦長の東郷平八郎でしたた。東郷はまず、商船を停船させて将校を送り、同船が英インドシナ汽船会社代理店所有の「高陞号」であること、清国兵1100人と大砲14門を朝鮮・牙山港へ輸送途中であること、船長のイギリス人は日本側の指示に従う意向を示していること-を確認すると、手旗信号で指示しました。
浪速「錨ヲ揚ケテ本艦ニ続航セヨ」
だが、高陞号の船長は従わず、重大事態が発生したので面談したいと返信してきました。東郷平八郎が再び将校を送って調べさせると、船長以下イギリス人乗員は清国兵に脅迫されており、すこぶる不穏な様子である。
東郷は船長に、イギリス人は海に飛び込み船から離れるよう指示した。
浪速「船ヲ去レ」
高陞号「許サレス 端艇(ボート)ヲ送ラレタシ」
浪速「送リ難シ 直チニ船ヲ見捨テヨ」
最初の停船命令からすでに4時間近く。事態はいよいよ切迫してきました。浪速の艦橋に立つ東郷平八郎は、高陞号の清国兵が刀剣をぬき、銃を構え、制御できない状態であるのを見て取ると、赤一色のB旗を掲げた。
「危険ナリ」を示す国際信号旗だ。この旗が軍艦にひるがえれば、その意味はひとつしかない。しばしの猶予を与え、東郷は言いました。
「撃沈します」
時に7月25日午後1時46分、浪速の砲撃を受けた高陞号は沈没します。その直前に海に飛び込んだ船長らイギリス人4人は救助され、清国兵の多くは射殺、もしくは水死した。
日本の軍艦が英国の商船を撃沈した-との一報は、当初は日本政府を動揺させ、英国世論を激高させました。だが、東郷の措置が国際法に則ったものであることが分かると、英国世論は沈静化し、日本側は手のひら返しで東郷を称賛しました。
それからおよそ10年、日露の開戦が間近となった明治36年12月、東郷平八郎は新編成の連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)される。海軍上層部は、東郷の冷静な判断力と豪胆な決断力に、日本の命運を託したのでした。
次のページに東郷平八郎元帥の「聯合艦隊解散の辞」を掲載します。そして、日本海海戦の開戦の辞も。
あ〜、サムライに生まれたかった。
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