もう軍と呼んでいいのでは?(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)十月四日)2

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 我が軍が、レバノンとギリシャに航空自衛隊を派兵します。自衛隊でも派遣でもない。我が軍と派兵です。あれだけ安倍さんの平和安全法案に反対してテロも行った野党の面々は、今回何もいいません。そんなもんか。あの時挙げ句の果ては民主党の岡田などは、自衛隊員の命を守れないとまでいいました。

 冗談ではない。日本の軍は、いまだにボジティブリストなのです。「これだけはやっていいが、あとはやってはいけない」という敵に手の内がバレバレの体制です。ネガティブリストにしなければなりません。国際法(有事・平時)の範囲は必ず守れというものです。ある軍事基地で、兵が銃を乱射しました。それを捕まえにくるのが警察官でした。どこの国に、軍事基地に警察が介入するところがあるのか。以上です。

   警察官職務執行法の範囲内でしか動けない悲しい軍隊。その軍隊で彼らに死ねと言っています。軍法会議もありません。訳のわからない普通の裁判官が裁きます。

 東郷平八郎元帥はご存知ですよね。ハワイでアメリカ軍がクーデターを起こしそうになったときです。高陞(こうしょう)号事件です。

 1893(明治26)年に米国人農場主らがハワイ王朝を転覆させたクーデター事件で、日本政府は邦人保護を理由に東郷平八郎率いる浪速など軍艦2隻を派遣しました。

 このとき東郷は、ハワイの監獄を脱獄して同艦に泳ぎ着いた邦人青年を保護、クーデター政府の再三の引き渡し要求を断固拒否する。軍艦内が治外法権であり、邦人保護の正当な権利がある國際法を熟知していたからです。

 これに慌てたのは日本の外務省でした。米国との関係悪化を恐れるあまり、海軍を通じて東郷に引き渡しを指示しました。やがて日本の領事館員が邦人青年を引き取るべく、艦長室を訪れました。

 そのとき東郷平八郎は言ったのです。

 「犯罪人であれ同じ日本人ではないか。その同胞が救助を求めてきたのを、おめおめ引き渡すのは心外だ。自分は彼を(クーデター政府の)獄吏に引き渡すのではない。(日本人である)あなたたちに引き渡すのである」

 たまりませんね。これを国際人と言います。相手の顔色を伺って、妥協するのが俗にいう「海外を知る」ではありません。

 翌年の夏、日清戦争が勃発しました。ここでも東郷平八郎は開戦早々、國際法をたてに果断な将器をみせます。

 明治27年7月25日、朝鮮半島中部西側の豊島沖で、日本海軍連合艦隊の軍艦3隻が清国海軍北洋艦隊の軍艦2隻と遭遇。宣戦布告を待たずに砲撃戦が交わされました。北洋艦隊の1隻が白旗を掲げながら逃走、残りの1隻は浅瀬に乗り上げて座礁、自沈しました。。

 この海戦の最中、清国兵を満載したイギリス商船が近づいてきた。日本としては厄介な事態です。清国兵を通すわけにはいかないが、うかつに対応すれば世界最強の海軍国、大英帝国を敵に回しかねません。


 この難局の処理にあたったのが、浪速艦長の東郷平八郎でしたた。東郷はまず、商船を停船させて将校を送り、同船が英インドシナ汽船会社代理店所有の「高陞号」であること、清国兵1100人と大砲14門を朝鮮・牙山港へ輸送途中であること、船長のイギリス人は日本側の指示に従う意向を示していること-を確認すると、手旗信号で指示しました。

 浪速「錨ヲ揚ケテ本艦ニ続航セヨ」

 だが、高陞号の船長は従わず、重大事態が発生したので面談したいと返信してきました。東郷平八郎が再び将校を送って調べさせると、船長以下イギリス人乗員は清国兵に脅迫されており、すこぶる不穏な様子である。

 東郷は船長に、イギリス人は海に飛び込み船から離れるよう指示した。

 浪速「船ヲ去レ」

 高陞号「許サレス 端艇(ボート)ヲ送ラレタシ」

 浪速「送リ難シ 直チニ船ヲ見捨テヨ」

 最初の停船命令からすでに4時間近く。事態はいよいよ切迫してきました。浪速の艦橋に立つ東郷平八郎は、高陞号の清国兵が刀剣をぬき、銃を構え、制御できない状態であるのを見て取ると、赤一色のB旗を掲げた。

 「危険ナリ」を示す国際信号旗だ。この旗が軍艦にひるがえれば、その意味はひとつしかない。しばしの猶予を与え、東郷は言いました。


 「撃沈します」

 時に7月25日午後1時46分、浪速の砲撃を受けた高陞号は沈没します。その直前に海に飛び込んだ船長らイギリス人4人は救助され、清国兵の多くは射殺、もしくは水死した。


 日本の軍艦が英国の商船を撃沈した-との一報は、当初は日本政府を動揺させ、英国世論を激高させました。だが、東郷の措置が国際法に則ったものであることが分かると、英国世論は沈静化し、日本側は手のひら返しで東郷を称賛しました。

 それからおよそ10年、日露の開戦が間近となった明治36年12月、東郷平八郎は新編成の連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)される。海軍上層部は、東郷の冷静な判断力と豪胆な決断力に、日本の命運を託したのでした。

 次のページに東郷平八郎元帥の「聯合艦隊解散の辞」を掲載します。そして、日本海海戦の開戦の辞も。


 あ〜、サムライに生まれたかった。


 実際には秋山真之の文だと言われています。知らんけど。

 これも秋山真之の文だと言われています。有名な

「敵艦みゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」です。

 そして、一旦戦闘状態に入ったときには
皇国興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ」です。

 見事に撃沈しますが、その後、各国のプレスが旗艦 三笠に上がり見た光景は、兵士たちが何も無かったのごとく通常勤務を粛々とこなし、甲板は見事に清掃れていたそうっです。

 これ日本固有の文化残心と言います。涙が出てきます。

 今の我々日本人は劣化していますね。

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このページは、宝徳 健が2024年10月 3日 12:23に書いたブログ記事です。

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