昭和親爺の独り言2(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)十月八日)2

| コメント(0) | トラックバック(0)
 私たちの子供の頃、日本はまだまずしかったのですが、当時の池田勇人首相の「所得倍増論」で、どんどん経済が成長していきました。極めつけたアメリカt渡りに渡り合って、360円/💲の為替レートにしたことです。勝てて加えて日銀を大蔵省を抑え込みました。つまり、金利高と増税です(もっとも当時の大蔵省はまだ今の財務省よりまともでした)。

 昭和39年には東京オリンピックと新幹線。それに付随して東名高速道路と名神高速道路ができました、まだ、子供だった私は「透明高速道路?」「迷信高速道路?」と思いました。バカですね笑笑。

 この昭和39年の東京オリンピックで白黒TVが飛躍出来に家庭に普及しました。それまでは、該当TVか電気屋さんのTVか、近くの家でTVを持っている家に観に行かせてもらいました。

 冷蔵庫は、まだ普及前。冷凍庫は隙間に大きな氷を入れていました。スイカはタライに水を入れ冷やしていました。

 まだまだ貧しかったのですが、とても幸せな国でした。夜も鍵をかけないで寝ていました。お風呂もないので、銭湯に行っていました。

 働く人たちも「我國のこと」を考えて働いていました。「この國」なんて第三者発言をする人はいませんでした。「我國」でした。列にもきちんとならんでいるし。

 あれはダメこれはダメという子供の育て方もしていませんでした。でも、悪いことをしたらとなりのおばちゃんが怒ってくれたりしていました。

 1943年のキシコオリンピックのころカラーテレビが爆発的に売れました。冷蔵庫・洗濯機も普及してきました。

 本当に豊かな國になりつつありました。


 でも、その豊かさと引き換えに精神がどんどん疲弊してきました。プラス敗戦後の共産主義左翼リベラルの跳梁跋扈です。

 その弊害たるや枚挙に暇がありませんでした。少し、その編の解説を明日から。

 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/9529

コメントする

カテゴリ

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2024年10月 8日 08:17に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「やれるものならやってみろ(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)十月八日)」です。

次のブログ記事は「皇太后陛下のご入院(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024)年十月八日)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。