今日から秋の例大祭(皇紀二千六百八十四年 令和六年(2024年)十月十七日)3

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 今日から秋の例大祭です。おめでとうございます。

 言っておきますが、神道は宗教ではありません。教義経典がありません。日本人の在り方そのものなんです。

 政教分離というのは政治と「教会」の分離です。

 それがわからない方は、欧州のあの凄まじい宗教戦争を勉強してください。

 キリスト教徒でも異教徒であれば殺したのです。「真実の歴史を知っている。それだけで殺す十分の理由になる」と。オランダの女王があるとき「異教徒でも殺さなくていいんじゃない」と言いました。

 それが欧州公法(のちの国際法)になりました。

 それを知らないアメリカやロシアや支那共産党などは、平気でそれを無視します。

 一番遅れて国際社会に参加した日本は、その国際法を悲しいまでに守りました、それが、日清・日露・大東亜戦争です。

 結果として、国際法を全く重視しないアメリカに負けてしまいました。

 あの弱体化したソ連に負けました。支那は、あの時政府さえなかったのですが、5大国になっています。

 第二次世界大戦で一つも勝利していないフランスが5大国に捩じ込みました。あめりかがいいました「なんだ、フランスも来るのか」と。

 これが国際政治です。やくざやアフィアより始末に悪い。

 日本は真面目でもいいのですが、国際政治をする時にはそれを知っておかなければなりません。

 明治の軍人や官僚たちはそれをよく知っていました。榎本武揚の外交交渉です。
 明治7年11月、ロシアの首都サンクトペテルブルクで日本の北の国境を画定する交渉が始まった。駐露全権公使、榎本武揚に対しロシア側は案の定、樺太(サハリン)の全島所有を主張した。同時に「日本に代償を用意する」とも語った。榎本は機先を制した。

 「それはウルップ島と1、2の小島だろう。樺太と釣り合わない」

 膠着状態の中、榎本は次の手を打つ。択捉島の北東に位置するウルップ島などの譲渡を受け入れると同時に「樺太に見合うだけの軍艦」を求めた。東方進出や度重なる戦争で財政難のロシアに高価な軍艦を供与できる余地はなかった。ロシアは代案を考え始め、千島列島の譲歩のラインを北東に延ばしていった。完全に榎本のペースである。

 榎本はついに「樺太と千島列島の交換」のカードを切った。ロシアは拒んだが、悩んでいるようだった。榎本はこんな情報をつかんでいた。欧州で英国と対立するロシアの皇帝、アレクサンドル2世が「二正面作戦」を避けるため、日本との交渉を早期に決着させたがっている-。ロシアは歴史上に方面作戦は絶対にしません。臆病なんです。核を持っているだけです。

 榎本は幕末に5年間、オランダに留学し、幕臣として日本に来たロシア人の相手もしていた。国際感覚と人脈を駆使し、相手がひるんだ隙を逃さなかった。8年5月7日、樺太・千島交換条約が締結された。

 国境に関する著作が多い東海大の山田吉彦教授は「当時は力で解決できない時代だった。力が弱い者が交渉することは非常に重要だった」と語る。欧州では戦争による国境画定が一般的な時代、日本は武力が乏しかった。外交で国難を克服した明治人の気概と行動力は実に痛快である。

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このページは、宝徳 健が2024年10月17日 08:46に書いたブログ記事です。

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