私の母の兄弟姉妹は、伯母(堯子 たかこ:朝鮮から引き上げ時に死亡)、伯父(舜一:しゅんいち)、母(汎子:ひろこ)、叔母(雅子:まさこ)、叔母(洋子:ようこ)の六人です。
祖父(母方)の祖父は秋武璋二 昭和四十四年十一月一日没。私が小学校四年生の時でした。祖母 アヤ子昭和三十八年九月八日没。私が五歳の時です。あまり覚えていないのですが、驚くほど優しい方で、怒ったのを見たことがありませんでした。八月十五日になると堯子伯母さんを思い出して仏壇に向かって泣いていたのだけは覚えています。
我が家は父方母方両家とも北朝鮮からの引揚者で這う這うのていで38度線を超えてきました。この辺の事情を知りたい方は、
藤原亭さんの「流れる星は生きている」
と
「竹林はるかとおく(別名ようこものがた)」をお読みください。軍備がなくなった国民は、生きていくことができないです。それなのに戦争反対と叫び戦争を防ぐ軍備まで否定する国民が多いことに悲しみを覚えます。
昔の親は大したものですね。今のキラキラネームとは全く違いま。堯子の堯と舜は支那古代の理想の王です。次に、子供が産まれていたらおじいちゃんは禹とつけていたのかなあ笑笑。
その中で、母 汎子と叔母 洋子はとても仲が良かったのです。私たちは洋子姉ちゃんと呼んで慕っています。母は福岡県遠賀郡芦屋町で生まれ育ちました。叔母はずっと、福岡県遠賀郡芦屋町です。母はそれから父と結婚して大阪府豊中市の日本アルミという会社の社宅で姉と私が生まれました。(幸:みゆき)だけが大阪府枚方市牧野で産まれました。
叔母 洋子はよく我が家に遊びにきていて、私の幼稚園の遠足の写真にも写っています。また私を、街に遊びに連れて行ってくれたそうです。その時、道に迷ってなきそうになりながら私を家まで連れて帰ってくれたそうです。
優しい優しい叔母で、いつも私たち姉弟妹を気にかけてくれます。その叔母が、終活に入ったみたいです。これまで、ずっともっていた母が叔母 洋子宛に書いた手紙を、私にくれました。もっとあったのですが、以前私にくれて、私が読んだら破棄しました。
半分はまた届いたので、母から叔母に溢れた愛情たっぷりの命の手紙を次回からブログに書きますね。
母は、中学の時、学校で一番の成績でした。地区でNO.1の東筑高校を受験する予定でした。でも、受験の朝に祖父と祖母に「お金がないから合格しても行かせててやれない。今日の受験はやめてくれ」と言われました。悲しくて悲しくて風呂桶の中に入って泣いていたら、中学校の先生が「秋武! 出てこい!まだ間に合う!先生が自転車の後ろに乗せて連れていくから」と家の外で叫んでいたそうです。祖母が外に出て「汎子は出かけています」と伝えました。
そんな悲しい時代もあったのです。母は昭和七年生まれですから、受験の年は昭和二十二年です。だけど、母は、そんなことにめげず、とっても明るく底抜けに優しい人でした。私が日本男児として情けないことをしない限りは。
どうぞご覧いただければ幸いです。
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