私は、担当者としての宇佐美の仕事は(実務的には)あまりしていません。本社と組んで宇佐美に当たっていたこともありますが、ものすごい経営再建の販売店を2店抱えていました。本来なら、宇佐美の担当というの、宇佐美だけの担当になるのですが、前の担当課長が、その2店に対して、「今度来る宝徳というのをつけるから」と約束したそうです。それと課の次席としてのまとめ役があります。出光では、権限が現場にかかなり委譲されます。現業にプラスして、ステップアップいしていくと1つか2つ上位の仕事も出てきます。現に私が名古屋支店から大阪支店に新任課長として赴任した時、大阪支店販売一課長の私には、約一億円ぐらいの決済は自分でやっていました。上の人?ちゃんと仕事をすれば何も言いません。これが出光の良さなんですが、仕事は(本気でやろうとすれば)どんどんキツくなります。偉そうに言っているんではなく。これが佐三店主がおっしゃっている「一人一人が経営者たれ」かもしれません。
宇佐美の親父さんや、専務、部長、T経理課長やSS所長の人にはいつも「 申し訳ないなあ」と思っていました。
大阪支店に転勤が決まった時、もちろん、宇佐美にもあいさつに行きました。親父さんとは、何時間話したかわからないくらい、いろいろな思い出話をしました。すごいのですが、一緒に行った出張のことを親父さんはちゃんと細かく覚えているんです。嬉しくて涙がでそうです。
その時、親父さんが言いました「宝徳、お前、◯◯さんの会社をよく立て直したな。出光の担当者が本気を出せば、販売店は立ち直るな」と。
私はこの会社のことを親父さんに言ったことはありません。「(なんで知っていらっしゃるのだろう)」と思いました。
「いや、本当にすごいぞ。よくやった」と。もうこの時には、私は、涙で顔がくしゃくしゃです。
「親父さん、たくさん、ご指導をありがとうございます。2年という短い時間でしたが、私のこれまで全ての人生よりも、生きていることが充実していました。それどころか、コレからの人生の糧にもなりました」。
「別にこれから別れになるわけじゃない。これからもよろしくな」
「こちらこそよろしくお願いします」
現に親父さんは、大阪支店に行ってからも、出光興産を退職した後も、しょっちゅう電話をくださいました。
親父さんが癌になられた時も、電話をくださいました。「宝徳、俺の命があるうちに一度会いにきてくれ」
親父さんが言いました。でも、私は行けなかったのです。一生悔いが残ります。なんであのとき・・・
葬儀に向かう途中、車を運転しながら、声を出してわんわん泣きました。途中で警察に車を止められました。「どうされましたか?」「今、大好きな方が亡くなって、命あるうちに会いに来いと言われていたのに行けなかったんです。今、葬儀に向かっているんです」
「そういうご事情でしたか。実は、スピードが出過ぎていてどうされたのかなと思っていました。今回は、違反にしませんので気をつけていらしてください。別の県までは無理ですが、◯◯県のうちはパトカーが先導します。」
親父にまた助けてもらいました。ダメな担当者ですね・・・。
宇佐美史郎 平成十七年(2005年)七月二十日 巨星落つ。享年 七十六歳。早すぎるよ。また天国に行ったらたくさん、怒ってね。
宇佐美の親父さん話はまだまだ続きますが、なんだか思い出して。
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