このなかで紹介する母からの手紙は、順不同になります。あまりにも数が多いので。今日の手紙は(平成六年(1994年)四月十七日です。母が亡くなるのが、平成七年(1995年)七月十日ですから、もう余命一年ちょっとです。胸が締め付けられます。
私たちには極力弱音をいないようにしていましたが叔母(洋子)にはこの手紙の中で言っています。平成七年に意識がなくなってICUに入りました。その前に妹(幸)と二人で病院に見舞いに行きました。行ったら、一般病棟のベッドの上で、量ってを持ち上げてブルブルと震えています。
「どうした!」と私がいくと、もう苦しそうで苦しそうでたまらない顔をしています。それでも、手招きします。「忙しいのにいつも見舞いに来させてごめんね」と。いつも自分より人のことです。医者に聞いたら「この方法だとよくなると思います。」と言いました。私は言いました「では、なぜ、それをやらないんですか」。医者「御家族に聞いてからと思って」・・・・・・。では、「私が行かなかったらずっとその治療はやらないのか」?と聞きました。胸ぐらをつかみぶん殴ることを必死で抑えながら。
すぐに集中治療室に入りました。父と交代でICUの前の廊下のソファーに泊まり込みました。親父が泊っているときに亡くなりました。「すまん」と電話が入りました。「俺が泊まりの晩でよかった」と言いました。後日の葬儀では「秋武の義父・義母には実の息子のように可愛がっていただきました。今回は、とんでもないことをしでかしました。すみません」と母の死を悼んでいました。
病気がありましたが、弱っていた足骨が折れて入院しました。外科に入院したのに、内科で死ぬか。霊安室に担当医は来ませんでした。「解剖してもいいですか?」との伝達だけをして。即座に断りました。顔ぐらい出せ。
都立大塚病院です。
亡くなったとき遺品整理をしました。自分のものは何もありませんでした。姉(一美)が父(佳男)に怒りました。「着物の一つもかってやれ!」と。それほど、自分のことより人のことでした。いつも使徒のことばかり。そして日本の優れた文化「婦道」を全うした日本女性の鏡のような母でした。病気になる前は、寝ているのを見たことがありません。「お母さんは、一体いつ寝てるんだろう」といつも思っていました。
その後も妹はこの死に納得できず、父と一緒に「訴えたりしないから、なんで外科に入院したのに内科の病気で亡くなるのか。亡くなった原因を教えてくれ」と数度手紙を出しました。返ってくるのは担当医ではなく、院長のワープロの手紙ばかり、それも同じ文言で。詫び状をワープロで書くことは絶対にしてはいけません。受け取る方は、何度も同じミスをしているんだな、と判断します。
母の葬儀には、彼女の出光興産株式会社勤務時代の活躍から、なんと、やめて何十年も経っているのに、役員の方がいらしてくださいました。同僚の女性も(一人を除き、もう退職なさっていましたが)。
私は昔、母が出光で働いていたことを社内で言っていませんでしたから、私の上司たちは、「なぜ、あの方が寳德のお母さんの葬儀にいらっしゃるんだ」とびっくりしていました。
平成七年(1995年)七月十日(月) 死因不明。 享年六十二歳。激動の人生でした。
(病院にて)という但し書きで母(汎子)から叔母(洋子)への手紙です。もう死を覚悟しています。
もうこの頃は握力がありません。よく手紙が書けたものです。朝起きると絶対なおらない自分の病気とまた一生です。それでも絶望せずに今を精一杯生きています。
「病院の玄関の桜が満開でとてもきれいです。いつもお手紙ありがとう。土日に電話をかけましたがするでした。もう入院して来週になると四週目に入ります。傷の治りがはかばかしくなくてあきらめてはいるものの病院生活はいやです。その上6日水曜日の日の夜は耳鳴りがひどくてそれが夜中からひどい痛みに変わり、耳垂れが止まらず現在に至っています。抗せい剤を出してもらって耳鼻科の予約を支給とったのですが、4/12木です。ここには耳鼻科がないので、大塚に申し込みました。又、入院手術で今年は病院生活の年になるのではと1人心の中で泣いています(これはうそ)。ほうたいの交換は月曜日です。1日なんにもすることがなくて朝おきるとまず今日は、何をしてすごそうかと思います。大塚(病院)は、地下や食堂があるのでコーヒーのんだり友達とおしゃべりしたり出来るので1日すごすのが出来るのですが。考えたことはありません。昨日、ここまで書いた時、細川首相の辞意表明のテレビ放送がありテレビを見ました。そして、夜、寝る前に又々ショッキングなことになりました。この間、手術をしてもらっ所のぬったところからうみが出たのです。心がこおる思いがしました。考えれば病院に居たときでよかったのかも知れませんね。もうくよくよしたってしょうがないです。次はどこかしらと右の足の裏が心配になりました。私の手紙なんて病気のことばかりです。でも今はそれしかないから。リウマチもひどくなると医者の手にもおえなくなります。くれふれも無理をしないですごしてください。又、いつか電話します」
昨日から書いている寄せ書きです。写りが悪くてすみません。昭和二十四年(1949年)三月十六日記す。シズエと書いてあります。
昭和一桁の女性とはこんなにも学があるんでしょうか。素晴らしい詩です。きっと戦時に勉強がしたくてしたくてたまらrなかったのですね。
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