石油業界の歪み⑭:自由化(皇紀弐千六百八十四五年 令和七年(2025年)2月二月六日)2

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 卸売の世界は、取引先である小売の力が増します。それでも出光にはまだ販売店の従業員が憧れてやまない直営店があったので、力はありました。心斎橋直営・姉ヶ崎直営などは、水道についているホースの巻き方まで、それらで研修を受けた販売店従業員は真似ていました。私も見たことがありますが、それは見事なドクロ型をしていました。郡山出張書の直営店は残念ながらそうではありませんでした。

 出光興産株式会社の誤った判断は、それらを販売子会社に移管してしまったことです。私たちの頃は、直営店の社員が病気をしたりしてスタンドに欠員が出た時は、事務所の社員が平気で欠員補充に入っていました。おそらく今は無理でしょう。出光興産株式会社は小売を手放してしまったのです。ですから、「なんで出光興産の社員はこんなに売るのが下手なんだろう」という状態ができてしまいました。

 私は本社勤務の際によく、先輩方に質問をしていました。「我が社は、小売ですか? 卸売ですか? 製造業ですか?」と。

 誰も答えてくれる人がいませんでした。佐三店主は「大地域小売業」と明確に言っていたのに。もし変えるのなら、それを経営者として社員が納得いくようにして、仕組みを変えていく必要があります。いきなり「総合エネルギー企業」と経営者が言い始めましたが、普段の仕事と掛け離れ社員は何をしていいかわからなくなりまし。結果、その経営者に気にいられている茶坊主がたくさん出世し、会社はめちゃくちゃになりました。そういう人ほど威張っていました。

  野武士揃いと言われた社員や常に辞表を懐にしまって自分の思うように仕事にアタックしている社員も少なくなりました。私たち若い社員から見ても「この人すげえ」という人も。 

  このように混乱に混乱を極めていた石油業界にお天道様はそれを正そうとするのは当然です。
  9月までの約束だったガソリンスタンドも8月で上がりです。2回の事務所勤務になりました。

  「最初はアシスタント的な仕事かな」と思いましたが、秋田県出身のある社員の奥様が、身体を壊しました。なので、その先輩社員は奥様の近くに行って世話をしながら仕事をするために、秋田に転勤になりました。出光はこれができるのです。課長(所長判断で)。もちろん、型通りの申請は入りますが。私も課長の時にやりました。大阪に単身赴任で来ていた我が課の先輩社員の奥様が病気で倒れました。即座に支店長・副支店長・人事部人事課に連絡をして、もし本人が了承したら、横浜支店に転勤させますのでお願いします(よろしいですかとは聞かない)、と言いました。みんな一斉に動いてくれます。本人にも打診します。本人は「そんなに甘えていいのですか?個人の事情ですよ」。私は、出光の理念に従えば「家族主義」です。と返しました。コンセプチュアルスキルです。本人が奥様に言いました。奥様は「そんなに甘えて大丈夫?」。旦那さんは「甘えよう」

  送別会で本人は涙を流していました。私は知らなかったのですが、ある販売店に「出光に40年いて、あんな課長に出会ったのは初めてです。社長、あの課長を絶対辞めさせるようなことをしないでください!」と言ったそうです。その販売店の社長は「あの人、こんなこといっとったぜ。でもな、他人を持ち上げるのはしんどいけど、引き摺り下ろすのは簡単だからな笑。課長、今日、飲み行かへんか」

 二人だけの飲み会で「あの人は、結構、マネジメントに大変なひとやけど、どうしたら、あんなに変わるんか」と言われした。「わからんは笑」と答えました。

 出光興産株式会社というの社員は転勤族です。だから当時社宅と独身寮は整備されいました。当然その方も新しい社宅に入れたと思います。

 敗戦後、資産を海外に展開していた出光興産株式会社は、すべての資産を失ってしまいました。当時、出光は日本石油(現 エネオス)の特約店だったのです。縄張り争いが酷い日本石油の特約店を嫌って、出光は海外(東南アジア、支那)に進出したからです。その上、敗戦で、海外から社員が引き揚げてきます。

 資金調達は国内金融機関でしたので、莫大な借金だけが残りました。各メディアは、「出光佐三は自殺するだろう」と噂し、「当然ながら出光(当時は出光商会)も潰れるだろう」と思っていました。

 出光社内の役員会でも、海外から引き揚げてくる社員を首にしなければ我が社は潰れると、佐三店主に馘首を申し出ます。すると、佐三店主は

企業の最大の資産である社員をなぜ首にするのだ!!!

と怒鳴りながら言いました。そして、一人も首にしなかったのです。

 次に「玉音を拝して」という名文句を遺します。

一、愚痴を言うな
二、今から建設に取り掛れ
三、日本の三千年の歴史を見直せ

 それから苦難のばかりの歴史が始まります。社員たちは、ひとつの家に何家族も住み、独身者は独身寮で複数人の相部屋です。そして、将来の石油業復帰を求めて、電気修理業、印刷業等等の事業をして、変な意味、会社を食べさせていました。佐三店主は、苦心して集めた個人の骨董品を売りに出して会社を支えました。

 (当時の)この名残が社宅となり独身寮となり出光美術館となりました。

 なので私たちの時の独身寮も平気で3人・4人相部屋でした。残業で遅くなる先輩たちのために、布団も敷きました。佐三店主は独身寮は「合宿所」である。場合によっては先輩は後輩に対して鉄拳制裁もせよと言います。

 楽しかったなあ〜。私は結婚が遅かったので独身寮は「広島」→「郡山」→「千葉(千葉では別の場所に立て直したので2つ)」と4つを経験しました。

 もちろん鉄拳制裁なんかしないですし、私たちが残業で遅くなる時は先輩方が黙って布団を敷いていてくれました。仕事ではとても厳しいい出光の先輩たちですが、私生活では優しいのです。

 ありゃ、また前置きが長くなりました。話は次回に続きますが、その秋田に転勤になった先輩の後を私に引き継げと出張所長がおっしゃったのです。仕事は販売店担当!新入社員担当者の誕生です。

 さあ、どんな歪みが待っているか笑。

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このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2025年2月 6日 15:50に書いたブログ記事です。

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