母から叔母への命の手紙:10通目(皇紀弐千六百八十五年 令和七年二月二十三日)5

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 今日は、私の大学の卒業式のことを叔母(洋子)に書いた手紙です。

 その前に出光興産株式会社に内定したときの手紙もどこかにあると思うのですが。

 内定したとき、うれしくて大親友のTJに連絡しました。そうしたらお祝いをするから来いと言われ彼の下宿(といっても代官山のマンション:彼はお金持ちです)に行きました。なんと、フランス料理のフルコースをご馳走してくれてるというではありませんか。代官山の店に行って、一番安いコースを頼むと、彼が「宝徳なあ、外で食べるときは一番良いものを注文しろ」と言いました。これまで私は怖くてそんなものを食べたことがありませんでした。こういう習慣も大切ですね。

 ビーフシチューを初めて食べたのも彼が連れて行ってくれたときです。渋谷でした。こんな美味いものがあるのかと思いました。と、思ったら、ある日曜日に彼の部屋に遊びに行ったら、「宝徳、すまん。昨日金を下ろすのを忘れた。無一文や。金貸してくれ」というではありませんか。当時はコンビニもなく土曜日に下ろさないと(土曜日は銀行はやっていた)日曜日は無一文になってしまいます。私もそのときは所持金0でした。仕方がないので、普段テニスのコーチをやっているマダム達に連絡しました(変な仲ではないですよ笑)。「今日、文なしなんです。テニスレッスンを入れてもらっていいですか?」と。いつもの三人のマダムが来て2時間レッスンでいくらもらったかなあ。確か1万円ぐらい。彼の車にはガソリンは入っていましたからテニスコートまで送ってもらいました。マダム達は大笑い。恥ずかしくてしかたがありませんでした。コーチが終わって、マダム達と別れ、また、彼が迎えに来ます。確か、浜松町にあるうどん屋に行った覚えがあります。なぜならば、そこはあの関東の黒い汁ではなくて関西や九州の透明な汁です(彼は大阪出身、私は博多出身。博多と大阪のうどんはよく似ていて腰がなくてねちゃねちゃしています。これがうまかっちゃん)。いつもおごってもらう彼に私は言いました「なんでん好きなもの食いやい」と。関西風の店なので、「けつね(きつねうどん)(また大阪のけつねが最高です。油揚げが違うのです)」におにぎりをつけて食べたと思います。「おかわりしてもよかけんね」とも言いました。あのときのうどんのうまかったこと。

 今でも彼にあったらこの話をします。

 話を戻しますが、出光興産株式会社から内定をもらった日に彼にご馳走になってから、家に電話をしました。すると母が激怒。

「食事の前に帰ってきてお父さんにまず報告をするのが本当でしょう!!」

 母に怒られたことはあまり記憶にないのですが、こういうけじめをとても大切にする人でした。では、洋子姉ちゃんに宛てた手紙をご覧ください。昭和五十八年(1983年)三月二十八日のハガキです。
「春のお天気は定まらず晴れ雨の繰り返しです。弓がんばっていますか(洋子姉ちゃんは弓道の有段者。確か錬士ではなかったか)。何かに打ち込めることがあるのは羨ましい限りです。三月二十三日は健の卒業式でした。立派な卒業証書を持って帰って来て「ながいことありがとうございました」と云われたときは、お父さんも私も感無量でした。もう四、五日で一人立ちしてはなれて行くので淋しい思いがしますが、きっと立派にやっていってくれると信じています。私共もあと四年で定年ですが長い間の放浪生活でしたので老後はどこで暮らそうかが今の我が家の課題です。子供達は福岡市がよいのではと云っています。どうなる事でしょう。庭にはまた草がいっぱい生え出してこれからの悩みです。洋子ちゃんの所はこれからいろいろあ花が咲いたり実がなったりでたのしみでしょうね。私もそうしたいとこの間からすこしづつ庭いじりをはじめましたちょっとすると手足の痛みが出てくるのでなかなな思うように行かなくて・・・。お金が貯まったら遊びに来てください。お身体気をつけてがんばってくださいね。では、また」

 この頃はかなり手足が痛んでいるようです。入退院を繰り返していました。字も良く書けてますね。握力は0だったはずです。達筆な母の字が乱れています。

 買い物に行くときはバッグを二つ両手にぶら下げてバランスをとります。手に持つ力はないので、肘にぶら下げてやじろべえのように左右に身体を振りながら荷物をいっぱい持って帰ってきます。母が買い物に行くとわかっている日に私が急いで帰ってくると私が帰ってくる前に買い物をすませてしまうのです。「そのぐらい手伝わしてもらってもいいじゃないか」と云ったら次からはそうしてくれました。

 この卒業のお礼を述べたときは、確か正座して言ったと思います。あの辛い病気でありながら、いつもニコニコ優しい笑顔を絶やしたことがない人でした。かみさんと息子と実家に泊まりにきているとき、トイレに行こうとしてベッドから落ち、母は足の骨を折ってしまいました。「治るよね、治るよね、私治るよね」と言った母に父は「ああ、必ず治してやる」と言ったのを覚えています。そのまま家には帰ってこられませんでした。外科で入院したのに内科で亡くなりました。都立大塚病院です。

さて、また母の中学卒業式の時の寄せ書きからです。お袋、今日は吉永恵美子さんからだよ。この方も達筆ですね!すごいなあ。みなさんの教養を感じます。

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このページは、宝徳 健が2025年2月23日 13:55に書いたブログ記事です。

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