母から叔母への命の手紙12通目(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)二月二十七日木曜日)

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 実際には周到な準備が必要でしたから着手したのはもっと前ですが、出光興産株式会社が虎の子(このタンカーを拿捕されたら出光興産株式会社は潰れていた)の日章丸をイランに派遣したのは昭和二十八年(1953年)三月です。イランの石油を国有化しようとしたモサデク首相と英国の石油会社アングロイラニアンの関係は最悪になっていました。英国は世界各国にイランの石油を輸入するなと圧力をかけました。現にイタリアのタンカーはイランの石油を輸入しようとしてイギリス軍艦に拿捕されています。

 どの国もイランからの輸入には二の足を踏みました。この話はすんなりと言ったわけではなく出光計助専務と手嶋常務は何度もイランに足を運びます。ようやく目処がついたのですが、今度は国内の金融機関がL/C(信用状:Letter of  Credit この会社は安全ですという金融機関のお墨付き)を出しません(英国との関係悪化を懸念する政府に遠慮して)。これがないと相手先から信用されないので輸入ができません。ただ一行だけが信用状を出してくれました。
東海銀行
です(今は三和銀行と合併した後に三菱UFJ銀行ご合併している)。おおらかな雰囲気の良い銀行でした。この信用状がきっかけとなり、金融機関お再編成が行われるまでは東海銀行は出光興産株式会社のメインバンクでした。

 最初は日章丸はロサンジェルスで石油を積む計画でした。途中で、日章丸の新田船長が、「今から出光佐三店主からの手紙を読み上げる。『アバダン(イランの石油積み出し港)に迎え』」。新田船長は乗組員全員に伝えます。「我が艦は只今よりアバダンに向かう!」すると船内の乗組員全員から大きな声が上がりました。「日本万歳!」「出光万歳!」と何度も何度も。

 同年五月に日章丸はイランの石油を積んで川崎港に入港します。石油を日章丸に積んだままにしておくと仮処分申請を出され裁判が終わるまでせっかく積んできた石油が使えなくなる恐れがあります。出光興産は自社の川崎油槽所に荷揚げします。その時、メディアに囲まれた出光佐三店主は言いいました。

我俯仰天地に愧じず(われふぎょうてんちにはじず)

(天地に誓ってなにもはづかしいことはしていない)

 そして出光興産株式会社とアングロイラニアン(以下、AI)は裁判となります。出光側の弁護士は柳井弁護士です。

 日章丸が石油を積んで帰路に着いた時、日章丸側からは出光本社に電文が打てません。発信位置がばれて英国の軍艦に拿捕される恐れがあるからです。メディアは騒ぎました。
日章丸は何処(いづ)こ

 なので、出光本社から暗号電文を打ちました。

 この暗号電文をう打ちづつけたのが、私の母なのです。当時、二十歳です。タイプライターができたので選ばれたのでしょう。余談になりますが、このタイプ技術を誰かに伝えようとしていた母は、私が中学生の時に貧しいながらタイプライターを買ってくれて私に教えてくれました。なので、いまでも私はパソコンでブラインドタッチができます(まずキーとなる「F」の位置確認して繰り返しFだけを左手の人差し指でFを覚えるまで打ちます)。

 窓もない四畳半ぐらいの部屋に閉じ込められて、家にも帰されずにひたすらわけのわからない暗号電文を打ち続けました。寝ずの仕事だったので、一週間後に母は倒れました。たいしたものです当時の出光興産株式会社は、二十歳の女の子を一週間拉致できる魅力があったのです。今だったらメディアも本人の家族も大騒ぎですね。「健、あのね。その時ご飯に天丼をとってくれるの。あの味は忘れられなかったわ」と言っていました(私が出光興産に内定した時も「よかったね〜。残業したら天丼が食べられるよ」と言っていました。よほど美味しかったのですね笑)。そして、日章丸事件に自分が関われたことを誇りに思っていました。昔の日本人はすごいですね。女性で一人だけ日章丸にあげてもらって新田船長に会わせてもらったそうです。これが働きがい改革です。

 裁判で負けそうになったAIは、時間稼ぎをするために「弊社のタイピストが休暇中なのでしばらく休廷にしてほしい」と裁判長に訴えます。柳井弁護士が答えます「我が方に優秀なタイピストがいる。彼女なら一日でしあげますよ。お貸ししましょうか?」 休廷は取り下げられました。その出光側のタイピストは母です。

  敗戦に打ちひしがれていた国民は歓喜します。母が亡くなる直前にその当時国民から本社に送られてきた手紙やファックスを店主室という部署に頼んで、全部コピーして入院している母の元に持っていきました。「ありがとう」といつも通り満面の笑みをたたえながら「私の一生は無駄でななかったのね。国のためになったのね」と言って・・・。亡くなっていきました。母の葬儀には、大和さんという出光の中ではかなりトップの方が参列くださいました。私は母のことを会社に言ってなかったので葬儀に来てくださった私の上司たちは「なんで宝徳のお母さんの葬儀に大和さんが来るんだ」とびっくりしていました。

 母は、大親友だった祖父(璋二)が出光計助さんに頼んで出光興産に入社しました。今は派遣ばかりになっていますが、当時から私が出光興産を辞めるぐらいまで、そうでしたが、女子社員は縁故が多かったのです。その方が雇う方も安心です。私のかみさんもお義父さんが出光興産の社員でした。

 女子社員が辞める時、(そうではなくても)結婚退職と言えば自己都合退職ではなく会社都合退職になります。退職金が1.5倍になります。保険も出光保険サービスの保険にOB(OG)として入ることができます。中には「そんなの悪いです。本当は結婚するのではないのに」という女子社員もいますが、その時には、おそらく担当課長がだまって「結婚退職」に◯をつけているはずです。今は知らないけど。私はそうしていました。会社側もそのことに対して「当たり前」という感じでした。

 また前置きが長くなった😭。今日の手紙は新婚ほやほやの父母が洋子姉ちゃんにあてた手紙です。葉書です。昭和三十一年(1956年)三月五日 午後の六通めです。葉書は五円です。この年の十二月に姉が生まれます。姉だけは病院で出産でした笑。叔母(洋子)は十二歳です。
「洋子ちゃん、今おてがみを見ました。洋子ちゃんが来るかとたのしみにしていましたのでがっかりしました。でも、またいつでも来られるのですからその時までまちませう。かきもち、水筒。貯金箱(古川さんに云ひませんから私のを上げます)、ハーモニカ(佳男人さん(父:父もとてもかわいがった)が洋子ちゃんに上げるそうです)、セーター(私のセーターをといて洋子ちゃんのを編んでいます)を四・五日半(うち)に送りますから楽しみに待っていてください。ひろこ姉ちゃんより

(ここから後半は父が書いています)

 ハガキを半分にして書いています。今来られないといふお手紙を拝見しています。今から労働組合のことで出かけねはなりませんので、ひろこ姉さんと半分づつ書くこしたのです。ハーモニカは送ります。楽しみにしてゐてください。今度大阪に来られる日を首を長くして待ってゐます。ツクシンボウの絵とても上手です。洋子ちゃんは風景画がうまいんですね。ヨシオ」

 当時父は日本アルミというところに勤めていました。日本アルミは住友軽金属に吸収されました。その時に人員削減を父は担当しました。人員削減が終わったら、「俺は、これ以上この会社にいたら辞めていったみんなに申し訳が立たない」と、日本アルミを辞めて、静岡県駿東郡裾野町にあった会社に入りました。私が小学校三年生の一学期の時です。私と姉はこの日本アルミの社宅で生まれています。妹だけはそのあと引っ越した枚方市牧野で生まれています。

 裾野の会社の名前・・・・。思い出したら書きます。たしか菱金製作所(りょうきんせいさくじょ)だったような。


 これは親父の字ですね笑。




母の中学卒業のときの寄せ書きです。お袋、石井キヨ子さんです。



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このページは、宝徳 健が2025年2月27日 03:50に書いたブログ記事です。

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