母は、子供たちが勉強しなくても決して「勉強しなさい」とは言いません。私は、中学一年の時、とても乱れました。成績も落ちまし。高校一年生の時も3番で入った成績一年後とんでもないことになりました(これは事前に両親に断っておいたが流石にこれは許容範囲外)。母はたった一言「あなたはこんな成績を取る子じゃないのよ」。と、涙を一粒ながします。それ以外はいつもの明るい笑顔です。これをされては男として無視できません。中学の時と高校の時の成績は次の試験で一気に上げました笑。(知らんけど)。
母は私たちに勉強を教えたことがあったかな・・・・・・。という感じです。最初に習ったのは「鉛筆の削り方」です。当時まだ電導はありませんでした。小さなマッチ箱のような鉛筆削り機の穴に鉛筆を入れて回せば削れます。でも、母は、これを許しませんでした。ナイフで一本一本削らせるのです。何回かやるとうまく削れるようになるのですが、勉強する前に鉛筆を削るので、なんか勿体無くて次からは勉強のあとに削るようにしました。
次に辞書の引き方です。へーーーこんなにいっぱい言葉ってあるんだ。とか。同じ読み方でも違う感じがあるんだとかいっぱい色々なことを知りました。今では、スマホで検索しますが、スマホが出る前は辞書が大好きでした。私は、何ページぐらいにその言葉があるというのを覚えていました。
次に手紙の書き方と推敲の仕方です。我々がSNSをやるような頻度で手紙を書いていたのではないかなあ。なので、こんなたくさん残っている。
さて、今日は、まだ病気になる前の母です。昭和四十年一月一日。お正月に祖父(璋二)がきています。連盟でハガキを書いています。ハガキ代は五円です笑。私は小学校一年生。大阪府枚方市に住んでいた頃です。
祖父が遊びに来ている時、祖父はいつもの習慣で朝からお酒を飲もうとしました。父が「申し訳ありませんが、子供たちがいるので朝から飲むのをやめていただけませんか?」と言ったら一日機嫌が悪かったみたいです。
話は遡りますが、父と母が結婚したばかりのときに、母の実家に行きました。夕食の席で、祖父が「さあ、佳男君(父)、一杯やろう」と言いました。父は、「いえ、癖になりますから控えます」と言った父にソフト祖母は惚れたみたいです。まだ、昭和三十一年です。まだまだ敗戦の爪痕が消えていない時です。貧しかったのです。
「静かな暖かいお正月で。子供達は各自大ぜいのお友達を連れて来てとなりの部屋であそんでいます。みゆき(妹)も仲間に入ってたべることに一生懸命です。一日は、今年こそいくらかでもよい年が送れる様にと、伏見神社にお参りに行きました。すごい人で、人波におされてあるいているだけでした。途中、すずめのちゅんちゅん焼き うずらのう焼き鳥がうっていました。書いたいけど買うこともできずお参りだけして帰って来ました。暮れには子供達へのお年玉、洋子ちゃんからは、クリスマスのプレゼント。ほんとうにお気をつかっていただき、ありがとうございました。すぐにお礼が書きたかったのですが、頼まれてた編み物をしてたらなにもすることが出来ませんでしした。編物で初めてお金を手にしたときは売れしくてたまりませんでした。これからは少しでもお金になっていくことでしょう。毛糸を送ってくださるとか、たのしみにしています。いつももらってばかりで。すみませんね。では、お体にお気をつけて」
父はおそらく、椎間板ヘルニアで入院していたのだと思います(うろおぼえです)。母は内職をしてお金をもらっていたのでしょう。お金が苦しかったのに、小さな私たちにはそれは絶対に言いませんでした。
みゆきが(妹:幸)が生まれています。いつも、みかんを食べていました。
叔母(洋子)がいつも言っていました。「汎子(母)ちゃんの手紙はいつもあなたたち子供ばかり笑」。
中学卒業の際の寄せ書きからです。お袋、柴田登喜代さんだよ。
くどいですが、みんなすごい達筆。そして、すごい教養。昭和一桁のすごさ。
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