母(汎子)はこのようにとても筆豆です。推敲も毎回しっかりします。加えて、私たちの子供の頃からの「母子手帳」「成績表」「賞状」などもきちんととっていてくれました。

父もとても筆豆です。生前はことあるごとに手紙を書いていました。特に姉の息子(一城)、私の息子(真大)には。手紙を泣く泣く廃棄してしまったのはおしまれますが、このブログにも「命の手紙」として書いています。右上の方にある「検索」を押したら出てきます。アーカイブの活用方法は、月毎に書いた内容が格納されています。
それが、なんと、父が書いた「寳德義一百年歳祭」というワープロうちしたものを冊子形式にまとめているものが残っていました。また、紹介しますね。
義一は、私の父方の祖父です。ソ連のシベリア拉致(あれは抑留ではない)でおそらく亡くなりました。
父です。 父方の祖父です。これで二十代前半です。
帝国海軍甲種飛行兵 明治の男たちに比べたら私たちの世代は
第14期です。この二年後 なんて子供なんでしょう。
に先任伍長になっています。 この写真は常に家に飾っていありました。
260人の兵を率いていた 「おじいちゃん、怖そうだなあ」って思って
そうです。「健なあ、部下が いました。父は「敗戦後はいつも親父が欲しい」
悪いことをするとすべて と思い、舞鶴に何度も言ったそうです。
父さんの責任になるんだ。 弓の腕前は錬士二段です。
でも、父さんは『俺の管理 もちろん、私は、会ったことがありません。
能力がないだ』と一度も 父方の祖母は四十代前半で未亡人になり
他人の責任にしたことは ました。寂しかったでしょうね。
なかった。それがリーダー
だぞ!」と繰り返し聞かされ
ました。
さて、今日は、少し母と叔母(洋子)との手紙を離れ、前野のおばちゃんが、祖母(綾子)に宛てた手紙を紹介します。前野のおばちゃんは、私とどういう親戚関係にあるのか、いまだに私にはわからないので、このブログで解明します。でも、とても優しいおばちゃんで、会うとかならず、和紙にくるんだお菓子をくださいました。
SNSよりやっぱり手紙の文化の方がいいですよね。もし、戦国時代にSNSがあったら、彼らが書いた素晴らしい手紙は残ってないですものね。不易流行。
「今朝は又昨夜の雪深々と今年の寒気がいっそう身に染み、暖房装置乏しき病院の寒さは如何ばかりと夫共々ご案じ申しあげ候。後の容態は如何かと気にかけぬ日とてなきも、ちと遠方にて御見舞いも思ふに任せ誠に殘念に御座候。其後、御容態は、如何かと気にかけぬ日とてなきも。ちと遠方にて御見舞も思ふに任せず誠に殘に御座候。昨日雅ちゃん(洋子姉ちゃんの上の叔母)の処立ち寄りしに、丁度お昼ごはんを食べた義兄様(じいちゃん?)と後◯◯より(読めませんすみません)。かへられ居り候。話によれば神經(経)痛など、おこりしとかや、さぞかし御難儀なされしとゞお察し上候。何しろ未曾有の寒波の年とて痛める人にはいっそう悪き事ならんと噂いたしており候。伸子(伯父 舜一の妻 前野のおばちゃんの隣に秋武が住み、その後伯父舜一はそこに住み祖父母・雅子は正門町というところに住んだ)さんにと色々とご面倒ばかりおかけいたし感謝いたしおり候。今後も何卒宜しくお世話 願ひ上げ候。幸ひ此方雅ちゃが近くにいて義兄様方のお世話をよくして呉れる故 一先ず安心御座候。◯◯(解読不能🥲)の雪や変えにて英里子(雅子の子 私のいとこ。意地悪な子笑)ちゃんも一寸も外出できず私参りし時は非常なる喜びようにて黒地に白桃色の花模様のセーター良く似合ひリンゴの如き美しきつゞかなるほっぺたをして又姉上様は如何ばかりいとしく顔を見たき事ならんと思ひめぐらせ居り候。早く天気回復し暖かき日来りなば、又皆して病院参上仕りべく話し居り候。その前に退院とくれば尚これにこしたる喜びはなく切に祈りおり候。暖かき布団におれば人の北陸のとのことまたこの寒空に焼け出されし人達、鹿児島の様に風邪引かぬよう夜分も布などかけてやるかしら等思ひ山深い小鳥が寒さどうしてゐるかしら、色々と考へ心配する事の多いこの頃にて候。前野は山の小鳥の事迄心配するなと一笑にふすなれど小さきものの生命こを可愛きものにて候。ゆちかちゃん(私は知りません)は連日踊のけいこに餘念なく元氣に暮らしおり三日の日に婦人会の修養講座の折に披露するらしく、例により活躍致し居り候。庭のサボテンも寒に◯◯(解読不能😭)大分痛手を受けし様子。唯山茶花のみ紅一点僅かに庭をかざりし候。何人の◯◯(解読不能😭)ならざるものと考へ居り候。テレビにて再三指宿だより見て早く姉上も元気になられて暖かい南の国 鹿児島へご案内申し度く 前野と常々話し居り候。春の山道は鶯の声いっそうたのしく苔と木々の新芽の香りただよひて静かな山道小川があり芹が流れに沿って青いうすい葉もゆらゆらと◯(書いどこう不能😭😭涙)てゐる小さなひなびた湯治傷。母も何回か杖をついて通った道。今一度行ってみたいを申されし母も今はなく鹿児島の山河なつかしく思ひ浮び姉上のご回復切に念じ上げ候。伸子さんも御風邪など召さぬよう御自身大切に姉のこと御願み申し上げ候。前野(前野のおばちゃんのご主人ですね)よりも御二人に呉々も宜しく申し居り候。かしこ。姉上様。數江
ちょっとおじいちゃんに真似て候文を使ひましたがどうでせう。そろそろおひるになりました。今日は私一人。さてラーメンにしようかなあ、それともご飯。隣に相談に参ります。早く株が上らめと不景気で美味しいものも食べられませんわ。私もどうにか風邪を引かずに過ごしてゐます。では又。さようなら」
この手紙は書き写すのが大変でした笑。歴史的ななづかい!繁体字! 文部省がいためた日本語ではなく本来の日本語ですね。我國は「言霊の幸(さきあ)ふ国」と言って、美しい言葉を使い合ふので、みんなが幸せになれる国でした。それが今やすっかり・・・。明治生まれの人間は美しいですね。
判明!!!前野のおばちゃんは祖母(綾子)の妹でした。祖母は(たしか)松本師範学校ででした。明治生まれの女性が師範学校にいくなんてとても優秀です。
祖父(璋二)は、門司の秋武病院(出光佐三店主の難病を治した病院)の跡取りだったのですが、兄弟に後を譲るため、自分は早稲田に苦学生として進みました。
いいなあ、この手紙。いいなあ、明治。切手は5円。
さて、母の中学卒業時の寄せ書きから。お袋、今日は季子さんからだよ。
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