今日の手紙は、戸畑病院に入院中の祖母(綾子)と看病中の叔母(洋子)に出した手紙です。今もありますね。「戸畑総合病院」です。結構すごい病院です。クリニック経営というのは結構儲かるのですが、病院経営は医師だけではなく様々な分野のコメディカルや他のサービス従事者がこれだけのサービスを提供するとなると、総合的にリーダーシップを発揮する人間がいないと無理です。一番厄介なのは医師です。病院が大きくなるに従って医療は専門科に細分していきます。できることできないことがはっきり分かれてきます。そこに国家資格を持ったコメディカルが関わります。看護師さんが一番総合的に医療を見る目を持っていることは、一度でも入院したことがある人ならわかるでしょう(わがままな看護師さんは手に負えませんが)。
ホームページを見る限りでは、それらの運用が統一的に患者に提供されている気がします。もし、これが本当ならどなたか素晴らしい方がいて、医師やコメディカルや他のサービス提供者を納得させるコンセプチュアルスキルをもっています。まるでホテルのような病院です。
また、ベット数は196です。ここに26の診療科があります。このぐらいのベット数の病院の経営が一番苦しい。310名の職員数で、看護師が127名。病床稼働率80%としても稼働しているベットが約157床。ICUの看護師基準の1対2、オペ看(手術従事看護師)、病棟看護師、臨床看護師等で看護師の最高基準の1対7を回そうとすると恐らくこれだけの看護師が必要なのでしょう。かなり効率化された「他セクションとのコミュニケーション方法」「情報共有力」「人材育成力」「IT化とその活用」等が実現していると言うことです。でないと病院が大幅な赤字になってしまいます。また、タニタの食堂が入っています。これも有効ですね。Wi-Fiも完備です。これは個室に入院している人間としては助かります。
患者さんと看護師さんの口コミもとてもいい。私が心臓バイパス手術で入院した「岐阜ハートセンター」もこのような感じでした。お見舞いに来てくださった年配のコンサルタントさんが「宝徳先生、ここはまるでホテルだね」とおっしゃっていました。
閑話休題。いけないけない。医療のブログではなかった。昭和三十八年三月二十三日の手紙です。封書で郵便代は20円です。この頃はもう妹(幸:実は妹の誕生日は今日二月十三日です)が生まれていますが、母は産後1ヶ月ちょっとです。手紙における母の文章の素晴らしさが感じられます。昭和一桁生まれとは日本女性が一番美しい頃かもしれませんね。
「お母様、御無沙汰して居ります。病気の方はいかがですか?三人目の子供が生まれると、一日が忙しくて手紙を書く間を見つけるのが大変です。書き始めるとじゃまをして泣き出すのでものね。でも、一ヶ月をすぎてどうにか落ち着いてきました。たけしちゃん(私)の時と同じく。生後十日目からミルクのお世話になりはじめ、今は、ミルクばかりです。みゆきちゃんの写眞を同封しますので、みて下さい。また近いうちにみゆきちゃんの写真とたけしちゃんの幼稚園、ひとみちゃん(姉)の小学生の写真を撮りますからたのしみにまっててください。お父様(祖父 璋二)から沢山お祝ひを送っていただきました。とてもすまなく思っています。暖かくなって庭の草木も芽をふきはじめました。ゆすら梅も、もうすぐ咲くことでせう。庭にはおしめが一ぱい干してあるのでとてもにぎやかです。パパ(このころは姉弟妹はパパと呼んでいた。姉と妹は今だにパパママといいますが、私は中学になってパパママという不良もおかしいだろうと思ってお父さんお母さんに変えした。高校になってからは親父・お袋を混ぜて呼んでいました)はお正月から忙しくて慰休があるのに、それもとれず働いています。三月二十日、二十三日は危険物取扱主任者の試験の講習のため、関西大学へ行っています。その試験日が四月十四日なので勉強に一生懸命 日曜日は子供達の相手をしないでせめられています。あいかわらずの張り切り男でがんばっています。そんなわけでどこえ(当時はへではなくえだった)も御無沙汰して居りますので許して下さいね。お母様も早くよくなって退院されるようにと祈って居ります。ひろ子





洋子ちゃん 日記帳とノート 子供達大よろこびしていました。ありがとうございました。ひとみちゃん(姉)は、おてがみを書くのだと云ってはいますが、暖かくなって、外でばかりあそぶのでまだ書いていませんのよ。机も学校の道具も揃って早く学校へ行く日が来ないかなとたのしみにして居ります。洋子ちゃん、お母様が元気になられて都合がついたらしばらく大阪に来ませんか?来てくれると嬉しんだけと・・・。それからカーティガン眞冬物 暮れに買ったのですが、私にははですぎるので上げます(これは最初から叔母(洋子)に上げるために買ったのだと思います。母は、自分のために自分の物を買う人ではありませんでした)。一度も着ていませんのよ。なにかのついでに送って上げます。今年の冬になったら着て下さいね。写眞を見てください。姉より」
この時の母が三十一歳。母と叔母(洋子)は一回り離れていますから叔母(洋子)は十九歳です。
池田勇人総理大臣がやられた「所得倍増計画」のGolden60'sと言いながら、日本はまだまだ貧しい時です。それに、その頃の主婦はたいへでした。洗濯機はない冷蔵庫はない掃除機はない。洗濯は、大きなタライと洗濯板でした。お風呂が家にないので、銭湯です。銭湯は三日に一度入れればいい。銭湯に行かないときは洗濯のタライで行水をしていました。そんな時に世話に子育て。パンバースなどありません。言語に尽くし難い生活だったと思います。その中で手紙を書くというのは・・・。
その市営住宅に小さな裏庭がありました。どうしても物置が必要だということで、親父と叔父(おさむ)が倉庫を手作りで建てました。私は子供心に「すごいなあ」と思っていました。今なら建築基準法にも消防法にも引っかかります(笑)。ただ父と遊んでもらった覚えがないのです。そのぐらい男が命をかけて働いた時期でした。
父は、仕事ばかりです。帰ってきたら母が着替えを手伝い、その後にどんと座って食事をします。父が出張でいない時などは、母は、陰膳をつくりました。その席に座ったらそれは「お父さんの席!!!」とひどく怒られました。でも、豊かで幸せな生活でした。おやつが買えない母は、パン屋さんにお願いして、パンの耳をもらって(無料)きてそれを揚げてくれました。農家さんから安くトマトや卵を買ってきてそれがお皿の上に置いてありした。他人を羨まなくてすむという世界はこんなにも良いことなんですね。仏教でも比較から不幸がはじまると押しています。豊かで幸せな時代でした。
母は叔母から言わせると「いつもお父さん(祖父)と喧嘩していたのよ」というのに、手紙ではお父様です。敬愛の念が今と違います。
母が「手が空いたからパパを迎えに行くよ」と言います。バス停で父が降りてくるのをまっていると、列に割り込む人がいます。「お前らそれでも日本人か!」とまわりの人は叫びます。父がバスから降りてきます。家では信じられないぐらい怖い親父ですが、降りてきて私たちの顔を見た途端のあの笑顔はわすれることができません。夜も家には鍵をかけずに寝ていました。今の日本はどうしてしまったのでしょう。
イザベラバードという女性が江戸末期に日本に旅行に来ました。宿に財布を忘れて他の地域を回ったのですが、財布はそのまま宿に置いてあったそうです。欧米なら盗まれて当然なのに。イザベラバードは「この妖精のような国に私たちの文化を押し付けていいのか」と云っています。美しいですね。かつての日本は。だから英霊たちは命を捧げてくれたのです。
今の日本では自衛隊が最高司令官内閣総理大臣の出動命令を拒否してもおかしくありません。
祖母は昭和三十八年九月八日に亡くなりました。私が五歳の時です。もうこのまま病院で亡くなったのですね。母や私たちには会えなかったのですね。私は数度しかあったことがなのですが、とにかく優しい方だという印象があります。まだ、母の実家には水道がなくて井戸でした。釜で炊いたご飯をお櫃に移し替え、みんなを先に食べさせてから自分が食べような方でした。いつもニコニコしながら。享年五十六歳。あまりにも若い死でした。その時の手紙もおいおい出てきます。
母の中の卒業式 寄せ書きからです、 お袋、今日は塩田登子さんからだよ。
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