魚上氷(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)二月十五日)

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 昨日から、七十二候は 立春 末候 魚上氷です。うおこおりをいずる と読みます。

 凍っていた川や湖の氷が割れだすころです。この七十二節気は、そんな割れた氷の間から魚が飛び跳ねる様子です。

 この時期によく見られるのが「薄氷(うすらひ)です。春の氷とか残る氷とか言われています。


 フリー素材より。

 こんなのです。今まで氷は硬かったので、そのつもりで思いっっきり踏むとバシャって、返ってきて洋服を濡らしたことが何度かありました笑。
 
 もうすぐ渓流釣りが解禁です。私はあまりしたことはありませんが、静岡県駿東郡裾野町(現 裾野市)に住んでいた頃、山に入ってやったのは半渓流釣りでした。

 本格的な渓流釣りは子供にはちょっと無理です。なおで、大人になってからは「いわな」とか「やまめ」の骨酒をひたすら飲んでいました。あれ美味しいですよね〜。これに長野名物の「ざざ虫」とか「蜂の子」があったら最高です。とか、蕎麦を食べながら骨酒を飲む。野沢菜も欲しい。ああ、たまらん。
  大阪市枚方市牧野には、小学校三年生一学期までしか住んでいませんでしたから、学校の桜が見事だったこと、枚方パークの菊人形がとても素敵だったこと、淀川の堤防につくしや蓬を採りに行って、つくしは卵とじや醤油煮、蓬は草餅にして食べたこと、初恋の女の子がいたこと、ぐらいしか覚えていません。

 子供の頃一番楽しかったのがこの裾野でした。読んで字の如しまさに富士山の裾野です。この魚上氷の時は、釣りはできませんでしたが、冬は、空気が透き通っているので、富士山がたまらなく美しいのです。今と違って毎日観られます。雪もよく降りました。まだ、水車で米の脱穀をなどをしていました。

雪が降ると、友達と竹を切ってきて、火で先を曲げて、紐を通してスキー板を作りました。ゲレンデはありませんでしたから、自分たち本当に幼稚な坂を雪で作ります。枯れ木をスティックにして、その小さな坂を何度も滑っていました。まだ日本が貧しい頃で子供達に親がスキー道具を揃えるなんてことはできません。他の遊びも全部手作りです。嫌ではなく、この創造性は楽しかったなあ。大阪から転校したきた私には、裾野の子たちがみんな野生に見えました笑。

 雪が降ったらみんな朝早くに学校に出てきて、雪合戦やっています。雪が降らない時も早く学校に出てきて運動場を10周します。

(失礼な言い方ですが)加えて、ガリ勉はしないのにみんなとても知的好奇心があるのです。知能が高いと言うか何と言うか。

 裾野には日教組による不埒な過った教育はまだ少なく、戦前のような教育が行われていましたから。今のような生徒を勉強を嫌いにする学校はありませんでした。学校に行くのが楽しくて仕方がありませんでした。

 世界的大数学者の藤原正彦先生がその御著書に書いているのは「世界的な大数学者は、例外なく子供の頃、情緒のあ自然に囲まれた土地に住んでいる」です。

 ただ一つだけ、隣の県に住んでいる父方の伯母が同居している父方の祖母と一緒になって、父や私たち子供たち家にがいないときに、母をいじめにいじめたことです。そこに関東に住んでいた叔父たちが加わることもありました。

  あの優しく朗らかで元気な母がストレスで病気になってしまいました。明るい母が初めて私の前で泣きました。どんなに母の病状が悪いと時でも、祖母は絶対に台所に立ったり家事をしたりしません。もうこれ以上この状態を続けたら私は命を落とす思った母は、父に「子供達をつれて福岡に帰ります。別れてください。」と言いました。仕事ばかりで事情を知らない父はびっくりしました。「母と子供達と別れて生きることは考えられない」と決心した父はその晩、祖母(父の母)に言いました。「私は、仕事を辞めて汎子と子供達と一緒に福岡へ行きます」と。関東に住んでいた父方の親戚中がそれを止めにきました。その時の父の会社での評価は高く、給料も一番良い時でしたから。結局、福岡に行くのですが、祖母がついてきました。なぜ???

 それから父の仕事の苦難が始まりました。長い苦難をへて、定年前にはまともな生活ができるようになりました。定年後は実力が認められて何社かに引っ張られて役員を勤め、やっと母が(病気以外は)安心して暮らせるようになりました。でも、母が亡くなった時に形見分けをしたら遺品がなにもありません。いつも私たちや親父や孫のものばかり買っていました。昔から自分のものを買う人ではありませんでした。

  父の一番下の叔父だけは、母の味方です。中学の時から社会人になるまで、一緒に住んでいたその叔父は、「健なあ、姉さんには考えられないぐらい世話になったんだ」といつも私に言っていました。最後は、「(母の負担を減らそうと)俺がお袋を引き取る(大阪)」と奥様を説得して祖母は大阪に行きました。奥様は苦労されたことと思います。もうその関係者で生きているのは、この叔父の奥様だけですから時効ですね。

 この奥様は明るくて元気なとても素敵な人で、私とも仲が良いですよ。なんか話が変な方に行ってしまいましたね。楽しい裾野の思い出と共に母の生き様を。もう、そのいじめた伯母や祖母は許してもいいですよね。

 裾野にいる時は絶対許せませんでしたが。お袋いいよね。

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このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2025年2月15日 05:57に書いたブログ記事です。

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