石油業界の歪み(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)二月二十六日 水曜日)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 ブログ記事1万まであと154通。四月になっちゃうかな。

 時計を少しだけ過去に戻します。私は中立な立場で書いていますので、官僚(通商産業省)・元売・悪いことをしていた石油販売業者・利権に石油を利用していた政治家・石油を使って悪ことをしていた人々等には都合が悪い内容だと思います。でも、こういうことを隠しているから世の中が良くならない。こんな業界でも、出光佐三店主や宇佐美の親父さんや大阪のTさん、熊本のIさんが出てきます。彼らは独自の目的と意志を貫いた石油業界の伝説です。石油業界の数少ない真実です。

 私が出光興産株式会社 郡山出張所に勤めてい時のことです。入社二年目でした。民族系元売(+外資だけど日本の元売)と純粋な外資系元売(メージャーの子会社等)との特約店(出光では販売店)との卸価格差が20円/ℓ(20,000円/㎘)になったのです(メジャー系の方が安い)。少し長くなりますが、この石油業界の不幸、特に、日本の元売の一部とそれに付き合う石油製品販売業(特約店・販売店)の悲劇を描きます。
 昭和五十三年(1978 年)十月にイランで石油産業労働者によるストライキに端を発したイランの政変がありました。イランの原油生産(油田から油を掘る)が大幅に減りました。特に十二月以降、約450万バレル/日の輸出が全面的に停止され、世界の石油需給に深刻な影響を与えました。

 これが、第二次石油危機です。

※バレル:59ℓ/バレル。アメリカが言っていることですから本当のことはわかりませんが、もともとビールを運ぶ樽をバレルと言いました。入れ物がなかった初期のアメリカの石油産業はその樽に掘った原油を入れて運びました。バレルの容量は60ℓです。原油を運ぶ途中で1ℓもれてしまったので59ℓ/バレルとなりました(知らんけど:大阪の人間がよく使う言葉)。例えば出光興産株式会社の20%を精製する 千葉製油所が19万5千バレル/日(石油業界ではバレル/日をBDで示す)ですからイランの450万/BDがストップすると実に23日以上、千葉製油所をストップせざる得ないのです。ほぼ一年中締めなければならない日数です。その後パーレビー国王の追追放やイランのアメリカ大使館の占拠などで、またぞろイランの石油生産は減少します。


※パーレビー国王:アメリカに国民の敵とうレッテルをはられイランを追い出されました。パーレビー国王は、戦争で負けたのにあんなに発展した日本に感動して、「イランは西の日本たれ」と国の発展に着手します。これが気に食わないのは欧米です。欧米は、「アラブがいらんことをするな。俺たちに原油を掘らして石油を供給していればいいんだ」とパーレビー国王を失脚させました。フセインもイラクで善政をしいていたのですが、そんなことはしなくていいと殺しました。アラブの春もあんなのアメリカの仕掛けです。その後、パーレビ国王の追放とバザルガン暫定革命政府の成立など」紆余曲折がありましたが、昭和五十四年(1979年)三月には輸出も再開され、生産もいったん400万バレル/日に達しました。でも、同年十月、テヘランの米国大使館占拠に伴う対米原油輸出停止と、これに対抗したイランへの経済制裁問題のため、原油生産は一層減少し、1980年央には150万バレル/日程度となりました。


イランの減産にもかかわらず、他のOPEC加盟国、非OPEC諸国の増産と世界的な石油需要の減少により、国際石油需給がようやく安定化しつつあったのですが、昭和五十五年(1980年)九月にイラン・イラク戦争が勃発し、石油需給は再び混乱しました。今度は、イランの輸出が減少したばかりでなく、当時350万バレル/日であったイラクの産油量が一気に50万バレル/日に落ち込んでしまいました。


この間、昭和五十三年(1978年)十二月のOPECアブダビ会議決議による値上げが実施されて以来、原油価格は数次にわたり引き上げられ、昭和五十五年(1980年)十二月のOPECバリ島会議では41ドル/バレルの上限価格が出現しました。さらに、原油の公式販売価格の上にサーチャージ(付加金)、プレミアムなどの割増しが付き、実質価格は名目価格以上に高騰しました。

イラン革命以後、サウジアラビアは原油価格に関し、一貫して穏健な立場をとりましたが、他の産油国は昭和五十五年(1979年)二以降、サウジアラビアを上回る値上げを行った結果、サウジアラビアと他の産油国との間に原油価格の格差がつき、サウジアラビアで操業するアラムコのパートナー(エクソン、テキサコ、ソーカル、モービル)を通じて原油を購入している石油会社が有利になったのです。


これを


アラムコ格差


といいます。私が出光興産株式会社に就社したのが昭和五十八年(1983年)です。このアラムコ格差の影響がどどんで始めました。これが我國の石油企業間格差の大きな原因とりました。


私たち出光興産はアラムコ系列ではありませんから業転(業者間転売玉:ブラックマーケット)よりも高い油を販売店に売らなければならなくなました。これはきつかった。販売店に行くのがいやでした。


この頃から日本の石油会社のメジャー離れが始まり、DD原油(産油国との直接取引やGG原油(政府間取引)などの言葉が世間に広がりました。


こんななかでも神戸支店のS支店長は、後で値引きを切ることとその値引き分を差っ引いて支払っていいことを条件に「こんな異常はながく続かない」と販売店にマーケットに対してどんどんアラムコ各社に対して価格追随販売支持しました。販売量は大幅に伸び、そして、「異常」が落ち着いてマージンが回復した時に販売店は伸びている数量に回復したマージンをかけますから大儲けです。Sさんは大したものです。本社からは大クレームでしたでしょう。でも、本社のオーナーシップがありこの時のSさんのやり方を踏襲すればれば最終的には出光全体でも潤ったはずです。


このSさんのやり方をヒントに後に私は名古屋と大阪市場で大暴れをしました。


このアラムコ格差は実は原油価格だけではなかったのです。次回ね。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/9760

コメントする

カテゴリ

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2025年2月26日 02:48に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「母から叔母への命の手紙:11通目 謎多き手紙(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)二月二十四日 月曜日)6」です。

次のブログ記事は「三月九日の櫻餅(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)二月二十六日水曜日)2」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。