東日本大震災1(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)三月十一日火曜日)

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  平成二十三年(2011年)三月十一日十四時四十一分に東日本大震災が起きました。十四年経って今だにその爪痕を残しています。被害に遭われ方にお見舞いを申し上げるとともに、お亡くなりになった方や今だに行方不明の方に心から哀悼の意を表します。

  最初は、確か「東北地方太平洋沖地震」という名前だったような。なぜ、東日本大震災に変えたのかなあ? 「東北地方太平洋沖地震」の名前方がその被害を現しているのに。私は地震の時、岐阜で仕事をしてひと段落ついて蕎麦を食べていました。すると岐阜でも結構大きな地震が。当時はガラケーですからすぐには情報が入りません。ホテルに帰ってニュースを見たら未曾有の地震です。

 それと、メディアも含め、大きな表現ミスがあります。福島第一原発が「地震の被害」にあったと今だになっていることです。あれは地震ではなく、「津波」で被害を受けました。その証拠に東北地方の各原子力発電所は、被災者の避難所にさえなっています。一切事故は起きません。そういう認識なので、あの史上最悪の総理大臣 民主党の菅直人が原子力規制委員などを作り、今だに。国に迷惑をかけています。原子力規制員会ついては後日書きます。原子力規制員会に始まる「百条委員会」って必要なの? 一万歩譲って必要だとしても、短期短期で繰り返す時限立法にしてほしい。

 ここは思い出深い地区なのです。私がし昭和五十八年(1953年)四月に出光興産株式会社に入って初めての営業担当の地区です。北は相馬市から福島県双葉郡楢葉町までと東は海なので西は福島県相馬郡飯館村がまさにが私のエリアでした。海沿いと盆地のような地形の山の間にある地域なので、ここが震災当時の放射線物質の通り道になりました。

 この地区には、なつかしい思い出がいっぱい詰まっています!!!!!そうだこれもいずれ書かなければ。
  
  私の大きな初仕事は、福島第二原発に販売店と協力してタービンをオイルを大量に原子力発電所に納入する仕事でした。申し上げておきますが先ほどの「地震」と「津波」のメディアの間違いとともにもう一つ。私が仕事をしたのは福島第二原発ですが、福島「第一」原発もあります。実は第一はアメリカのGM(ゼネラル・エレクトニック社)製なのです。この出来がひどい。弁も何もついていない出来でした。東電の社員は必死になって改良に改良を重ねなんとか通常運転のレベルまでこじつけました。それが津波で被害を受けましたがこの事故ですみました。GM製を修理していなかったらとんでもないことになるところでした。そんなことをメディアが言ったのを聞いたことがありません。

真実を報道するそれが民主主義を護る唯一の方法である

  メディアのコンセプトです。コンセプトに基づかない仕事や行動がいかにつまらないものになるかは、織田信長やトランプのことを書いた記事でもお分かりになりますよね。だからメディアの(特に社会部)の仕事はつまらなくなる。

 閑話休題。私の初仕事の話を。
  東京電力福島第二原発は、福島県双葉郡楢葉町という風光明媚なところにあります。東日本大震災では福島第一原発と同じ被害を受けたましたが、GE製ではなく日本製だったので、炉心損傷に至ることなく全号機の冷温停止を達成しました外部電源等、交流電源設備が使用可能であり、「原子炉」を冷やすことができたからです。これがGM製と日本製の違いです。これもメディアから聞いたことがない。

 福島第二原発の開所前に、「末永さんのところで、福島第二原発にタービンオイルを納入するらしいから宝徳、行ってこい」と言われました。東京の(名前を忘れました。すみません)の東電と付き合っている大きめの販売店と地元の有限会社末永商事と私でタービンオイルの納入をしました。

 ところがこの仕事が大変で(仕事で大変なのは当たり前。私が「大変」という言葉を使う時は「面白い」と解釈してください」、納入するまでにどのくらいかかったかなあ二週間ぐらいかかったと思います。
※ タービンオイル:今回の場合原子力発電のタービンの軸受の動きをなめらかにする潤滑油

 オイル納入口から原発までのパイプライン一つ一つの区切り一つ一つに(ドレンって言ったかな)、こまか〜いメッシュの金属網を挟み込んでいきます。そして、試し油を流すんです。流し終えたらその大量のメッシュをひとつひとつとって、エーテルで洗うんです。もう一日作業が終わったらエーテルを扱っているので酔っ払ってふらふらです。

 この仕事をパイプラインに残っているスラッジ(ゴミなど)がほんの一粒もつかなくなるまでやるんです。繰り返し繰り返し。ほんの一粒がなかなかなくならない笑。もう最後は酔っ払って三人でスラッジを取りながらバカな話ばかりしていました笑。ケラケラ笑いながら。でも、ここまで安全にこだわっている原発はすごいなと思いました。

 さあ、終わりました。いよいよ試し油ではなく新油の納入です。大きなローリが何台も来て、ドバドバドバっと流されます。これまでのこともあって、三人は感極まって涙でこの姿を観ていました。東電の方からも「素晴らしい仕事をありがとうございます」と言われました。

 すると末永の親父が海の方へ行きました。ホッキ貝をとってくるのです。「宝徳君なあ、原発は人間の体に無害なんだ。なのに原発の近くで採れた海産物は消費者が危険だと思って売れないんだ。そんなことはないのになあ。ほら食ってみろ」と海水でじゃぶじゃぶと洗ったホッキ貝を一つくれるではありませんか。それも海水と温かい水で育っているのでよく育って大きいんです笑。その時の末永の親父と私の会話。「宝徳君なあ、この辺ではホッキ貝のことを『女性のあそこ』というんだ。あまりにも美味しいからな」「へー、ではいただきます」(昭和チックで、セクハラもどきで、エッチな話ですみません)。

 私は食べ物の危険性とかには無頓着な方なので「はい!」と言いながらぺろっと食べました。おいしい!!!と叫ぶと末永の親父が最高の笑顔で「そうだろう」と言いました。

 この楢葉町というのは「鮭」の南限です。木戸川というところがあり、近くで鮭のフルコースを末永の親父に食べさせてもらいました。シャケは捨てるところがありません。頭の酢の物、もちろん身、骨の唐揚げ等々。表現できないくらい美味いんです。

  有限会社末永商事とは思い出深いことがたくさんあります。当時、売るのは上手いのですが(業界平均販売量をかなり上回っていた)、資産状況が悪く、市況が悪くなるととたんに苦しくなります。つまりPL(損益計算書:Profit&Loss 一定期間の経営成績)はいいのですがBS(貸借対照表:Baransu Sheat 一定時点の資産状況)が悪いのです。

   あるときおそらく他社がマーク替えの勧誘に来たのでしょう。ある日の夕方に私に電話がありました「宝徳君、もう俺は耐えられない。マーク替え(令和七年一月二十三日のブログ記事参照)をさせてくれ」と。変え「させてくれ」という表現だったのでまだ大丈夫を思った私はすっ飛んで行きました。郡山出張所から末永商事までは車で三時間弱かかります。

 着きました。口説くことは私はしません。決めて責任を取るのは経営者ですから。私にできることは自分の思いを述べることです。末永商事への期待感を。それと物心両面の援助の姿勢を(ここですごいのは出光興産は社員が会社に帰って承認を得ますと言いません。新入社員でも「こうします」との結論を出します)。

 最後には末永の親父が言いました。「宝徳『さん』、たすけくれ」と。もうすっかり夜中です笑。帰ろうとしたら、今日は泊まっていけとなりました。末永一家と夕食です。その時に奥様が作ってくださった「タラの芽の天ぷら」の美味かったこと。初めて食いました。食っていると自然と涙が出てきて格好悪かった。

 末永商事は、ネット情報では精算結了をしていますね。お疲れ様でした。震災から一度復活したのにね。

 末永社長は、遠くからなのに私の結婚式まで来てくださいました。最高の笑顔と相変わらずの豪快な言の葉をというご祝儀を持って笑。なつかしいなあ。まだ、ご存命だったらいいなあ。一度電話をかけてみます。

いろいろな ことがあるほど 思ひでが 互ひに溢れる 二つの人生

 東日本大震災の話は明日以降もうひとつ(BCP)の話をします。

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このページは、宝徳 健が2025年3月11日 00:30に書いたブログ記事です。

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