母から叔母への命の手紙:14通目(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)三月四日火曜日)

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 NHK朝イチの小芝風花さんをMHK+で観ながらブログを描き始めました。彼女素敵ですね。以前から存じ上げていてこの人素敵だなあと思っていました。小芝風花さんは演技が上手ですよね。最近の女優さんはみんな素敵です。TVを観るたびに「あの女優だれ?」と聞くと「何回教えればいいのよ」とかみさんにいわれ、今ではもう無視されています。

 さて、今日から二回ぐらいのお時間をいただいて母と結婚した後の若い頃の父を紹介します。若い時はもちろん94歳で亡くなるまでストイックな人でいつもなにかに目標を持って取り組んでいる人でした。心臓の病気で生死をさまようよな状態にあっても少し良くなると(まだ歩けないときなので)腿上げを片足毎日20回ずつやっていたり、退院する際も看護師さんから「二、三日家で安静にしてください」と言われているのに、「もう、退院したらすぐに散髪屋に行くんだ」と言って聞きません。看病していた妹も最初は心配していたのですが、退院するときは「お兄ちゃん、もう好きにさせり。まだ死ぬ様な人ではないよ」と呆れていました。こんな父を母はよくコントロールしていたものです。

 敗戦後、祖父はシベリア拉致で向こうで亡くなって帰ってきませんでした。祖父のことはまた改めて書きます。残されたのは祖母、伯母(敏子:長女)、佳男(父:長男)、正是(叔父:次男まさよし)、信(叔父:三男まこと)、卓(叔父:四男たかし)、治(叔父:五男おさむ)。信だけは、二歳で元山という朝鮮の街で亡くなりました。肺炎です。鯉の生き血をを飲ませたりして生きるのを望んだそうですが、可愛い笑顔を見せながら命を閉じたそうです(当時の肺病は死病だった)。祖父と父は召集されていたので、祖母と五人の子が北朝鮮から引き揚げてきました。軍隊が失くなった国の民族は外国人から筆舌に尽くしがたい酷い目に遭います。祖母は長く一緒に住んでいたのですが、引き揚げの話は祖母から聞いたことがありません。よほど辛かったのでしょう。この辺はまた書きますね。

  大日本帝国海軍が解体され、みんなが引き揚げてきたなかで、父は長男として家族を支えなければなりません。福井県丹生郡越前町玉川の、昔は「宝徳屋敷」と呼ばれた宝徳本家の土地建物はいつの間にか人に取られてもうありません。仕方がなく大阪に出てきた父は、バッタ屋までやって暮らしていたそうです。腹が減って腹が減って、道を歩きながら揚げ饅頭(あんドーナツのことを父は亡くなるまでこう呼んでいました)食っている人間をつけ回して奪おうとしたこともあったそうでです。帝国海軍甲種飛行兵第十四期(甲飛十四期)の父の人生もまた書きます。父(祖父)にいて欲しくて欲しくてしかたがなかったと晩年よく言っていました。
※バッタ屋:金属など金になりそうなものを道から拾いそれを売りに行って幾ばくかの金をもらう人。

 母と結婚して大阪府枚方市に家を移ってきた時に、父は椎間板ヘルニアになって長期入院します。今のようにセーフティネットの仕組みがある訳ではないので、収入ゼロです。母は内職をして家計を支えました。あるとき子供達に「昼間はいなくなるけどお母さんは働きに出る。このままでは、あなたたちに、おやつも用意してあげられない」と言いました。子供達三人は「おやつなんかいらないから働きにはいかないでくれ」と母に頼みました。私が幼稚園の頃だったと記憶しています。母は内職をしていましたが、相当苦しかったのだと思います。でも、いろいろな工夫をして私たち子供には、ひもじい思いをさせませんでした。祖母は祖父の年金だか恩給だかしりませんがかなりの額をもらっていたはずです。でも、あまりそのお金を家には入れていないようでした。それにどんなに母が忙しくても、祖母が台所に立ったのを見たことがまありせん。

 私たちのおやつは「パン屋さんで母が無料でもらってきたパンの耳を母が揚げたもの」「農家から母が安くもらってきた生卵一個ずつ」「これも母がもらってきたんだろうなあトマト一個(昔のトマトはうまかった)」「祖母が庭に植えていた柿」「長屋の裏に自然となっていた無花果」などなど。なので、私は外でおやつを調達するのがうまくなりました。野いちご、スイカやイチゴ(これは少しだけ盗んで食べた:ごめんなさい)、桑の実、回覧板おやつ(昔は回覧板というのがあって、町内連絡を板に乗せた紙で回しあっていました。それを隣の家に持って行くと隣のおばちゃんが紙につつんだおやつをくれます)。でした。そんな中でも母は子供達に対して笑顔をたやしませんでした。母のため息は聞いたことがありません。母が泣いたのは一回しか見たことがありません。母の愚痴も聞いたことはありません。

 その頃の母から叔母(洋子)への手紙を紹介します。洋子ねえちゃんだけには少しお愚痴をいっています笑。
「するめ有りがとうございました。子供達も大よろこびをしてしゃぶっています。毎日の(父の見舞いの)病院通ひと内職でなんだか忙しくて自分がすさんでいく様で、こんなことではいけないと云ひきさせています。和枝さん(次男正是夫人)がお見舞いに飛行機でかけつけてくれました。七日が手術と思って覚悟していましたら、五日はずした結果がとてもよくて十五日コルセットをはめて歩行練習次第退院とのおもいがけないよろこびニュースにほっとしました。治療が相当の拷問だったらしくやせている上にやせて、来る人来る人驚いています。退院しても会社に出られるのは二十日くらいでせう。では、また。お元気でね」


 母の中学校卒業式の寄せ書きです。お袋今日は、多々野サト子さんだよ。





 それにしても作詩のレベルが私たちとは比べ物にならない。
きっとこの頃の乙女は心が澄んでいるのでしょうね。

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このページは、宝徳 健が2025年3月 4日 02:49に書いたブログ記事です。

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