母から叔母への命の手紙:15通目(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)三月六日木曜日)5

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  父の入退院第二弾です。私からするとよい親父でした(結果的には:笑)。出光興産株式会社本社にl勤務の頃、父と新橋にある「よもぎ」という、父の小学校のときの同級生の女性がやっている飲み屋によく行きました(すごいですよね笑)。私のかみさんもきたことがあります。いい飲み屋さんでした。そこで親父と仕事についてバンバン笑いながら話していると、おかみさん(確か、みよちゃんという名前)が、「よくそんなに親子で話すことがあるね」といつも言っていました。私が「お母さんも一緒に飲もう」と言ってビールを注ぐとみよちゃんは嬉しそうに飲んでくれました。父は、「お前、 飲ませ方がうまいなあ」と言ってました。よもぎで父と別れてお互いの家に帰ります。そうすると母から電話「お父さんは無事つきました(この電話は必ずあった)。今日もありがとう。あんたと飲むとお父さんうれしそうだわ笑」といつも言っていました。その頃は父は、人生の転機どころか、今まで生きていた中で一番収入も大きかったのだと思います。父は、全額、母に渡して小遣いをもらう人でした。親父宛にきた手紙は、親父が家にいない時でもいつでも「開封して連絡してくれ」と言っていた人でした(昔はみんなそうでした)。これはかみさんにしたら最高に嬉しですよね。晩年、独身の妹と一緒に住んでいる時も、父の年金はすべて妹に渡し家計を任せていたようです。

 この頃は完全に夫婦の関係は出来上がっていました。母はあんなに嫌がった結婚だったのに爆笑。

 私が出光興産株式会社に内定が決まった時など「健、俺はなあ、日本一の出光興産ファンだ」と公言してはばかりませんでした。この年代の人は、やはり、母も活躍した日章丸事件の感動が忘れられなかったんですね。

 ある時、父の会社がどうしても出光石油化学と取引が必要になりました。母は元上司の、大和さん(母の葬儀に来てくれました。当時は出光石油化学の社長です)に電話をかけます。父は上司と一緒に出光石油化学の大和さんに会いに行きました。大和さんは「私は何をすればいいですか?」と言い取引が始まりました。父の上司は「宝徳は、出光石油化学の大和社長と友達だ!」と帰社後叫んでいたそうです。大和さんは、日章丸事件の時に母を一週間拉致した張本人です笑。「ぼんちゃん、ぼんちゃん」と言ってやめた後も可愛がってくれました。汎子の汎をとって「ぼんちゃん」です。

 それほど日章丸事件というのは大きな世界だったのですね。母は、その時、残業で大和さんにご馳走になった天丼のことを言うだけでしたが笑。

 母はいつも、「出光の社員はね朝早く来て書類を整理して9時前には、行ってきますと出かけて、夕方帰ってきてそれからまた仕事をするんだよ!」と言っていました。まさに働き方改革=働かない改革ではなく、働きがい改革ですね。確かに私がいたときも(今は知らんけど)、仕事を強制された覚えはなかった。ただし、これ頼むという言い方で仕事を引き受けます。期限がはっきり決めてないんですが、上司が「できたか?」と言った時にできてないと、それ以降は仕事を頼まれませんでした。それが、売られた喧嘩を買ってきた私には、すごく面白くて楽しくて仕方がありませんでした。おおらかないい会社でした(今は知らんけど)。

 さて、そんな親父が椎間板ヘルニアで入院して、退院したときの手紙です。母から叔母(洋子)への第二弾です。 洋子姉ちゃんにだけは母は愚痴を言えたんですね。可愛いだけではなく甘えられる存在でした。

「暖かい毎日です。編物の方上達しましたか? こちらもいよいよ土曜日(十八日0)が(父の)退院です。御心配をおかけしました。完全に快くなって帰ってくるのでしたら私のうれしいのですが、動かなかった足が動くようになっただけでいたみはとれてないらしいのです。コルセットをはめて先生が「痛みはその中(うち)に取れます。もし悪くなったら手術しませう」ですから一時退院です。このままいたみもとれてよくなってくれると理想的なのですが・・・。本人は経済のことばかり心配して、退院するとすぐに働きに行くと云って聞かないのです。医師は今月いっぱい歩行訓練する様に来月から調子がよかったら働くように言われているのですが、あの調子だと退院するとすぐに出勤するでせう。なかなかにとの云うことを聞く人とはちらいます。洋子ちゃんにつまらないことをかきましたね。編み物洋裁と頑張って下さる様に。お元気で。では又ね。退院お知らせまで」

 とんでもない親父ですね笑。

 私は高校時代に父をうんと恨んだ時期がありました。「なんでこんなに母を不幸にするために結婚したんだ」と。母にとても怒られました。「不幸か幸せかは私が決めること」と。「あななたちが生まれてくれただけでもどんなに幸せなことか」とも言われました。病気もかなり進行している時です。こちらこそ産んでくれてありがとうです。でも、夫婦の形って夫婦にしかわかりませんね。

 叔父(治)のところにいた祖母が病気になって入院しました。当時もとても貧しかった我が家でしたが、そのとき、父は給料全額を叔父に渡してしまいました。夫婦喧嘩というものを初めてみました。だってその月の生活費はゼロなんですから。母が怒るのは当然です。どう工面したかは知りませんが。姉が「今回はもしかしたら別れるばい。あんたどっちにつく」と云ったのを覚えています笑。私が高校生の時です。また内職をしようとしていたのですが、もう身体が動かなくなっていました。

夫婦とは 困難な時 喧嘩する 喧嘩ができる それが夫婦か


母の中学校卒業式の寄せ書きです。お袋、林田伸子さんだよ。



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このページは、宝徳 健が2025年3月 6日 17:07に書いたブログ記事です。

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