これを書き終えると平成二十一年(2005年)九月二十日に始めたブログがもうすぐ累計記事1万件になります。あと34通です。
今日は、私から叔母(洋子)へ出した手紙です。何歳ぐらいだろう? 恐らく小学校一年生の頃ですね。「夢の超特急 ひかり号(今の新幹線)」が書いてありますから昭和三十九年です。
母は、高校受験の時、家にお金がなかったので受験当日に祖父と祖母から「合格しても高校に行かせるお金がないから今日は受けるなと言われました」。母は、中学校で一番の成績でした。かなちくて悲しくて仕方がなかったみたいです。
なので、子供たちにはなんとか貧しくても勉強をさせてやりたいと必死でした。ただ、「勉強をしなさい」と言われた覚えがないんです。手紙の書き方にしても、「健、洋子姉ちゃんにお手紙書こうか」と笑顔で言われて書いたら、「すごい、よくできたねえ」と誉めら得れました、この頃私が書いた手紙には修正もしませんでした。字はもっと早くから読めていました。母が、本をたくさん読んでくれていたので。小学校三年生ぐらいになったら「推敲」を教えてくれました。
とにかく、鉛筆の削り方、手紙の書き方、辞書の引き方など、基本的なことばかり。あとは、(忙しかったんでしょうねえ。父の病気とかも抱えていましたから)自主性に任されました。
姉(一美)と私は母の笑顔が見たくて、母に誉めてもらいたくて勉強ではなく「学習(学んだことを繰り返し行う)をしていたように思います。姉の成績は私なんかと比べて抜群によくて、中学校に入った時も常に10番以内でした。私は遊んでばかりいたので😭。
では、私が六歳の時の、この貴重な手紙を取っておいてくれた、洋子姉ちゃん(叔母)に宛てた手紙をご覧ください。かなり恥ずかしいですね。
「ようこねえちゃん、まふらあ(マフラー)ありがとう。ぼくはうれしかったのでようちえんにしていきました。おじいちゃんにゆめのちょうとっきゅうお(をの間違いを書いています)かってもらいました。ものすごくはやいからこんどきたらさせてやるぞ。たけしより。さよお(うの間違い)なら」



昭和二十四年(1949年)三月十九日に母が中学を卒業する時の寄せ書きです。敗戦後まだまもない頃です。母の家族はがやっと北朝鮮から引き揚げてきたすぐのことですね。
この頃の女子中学生の教養レベルはすごいですね。みんな、詩と和歌が創れます。きっと、戦争の頃学校で勉強したくてしかたがなかったのでしょう。見事な人間性です。
「人はただ なぞの道を 守りたし 祈らずとても 神や守らん」とあります。神に祈る前に自分で生きろという意味でしょう。
お袋、今日は、大庭京子さんだよ。
拙首です。
つらきこと 多い時ほど 人は知る 己が真に 楽しい姿を
「楽」と「楽しい」は全く別物ですね。
働き方改革は「楽」です。働いがい改革は「楽しい」ですね。
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