寳德義一生誕百二十一年祭3(皇紀 弐千六百八十五年 令和七年(2025年)四月朔日火曜日)

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   れを書き終えると平成二十一年(2005年)九月二十日に始めたブログがもうすぐ累計記事1万件になります。あと17通です。

 あれ? ブログ書けますね。では、今契約しているプロバイダーは何だったんだろう? まあ、書けるならいいいや。うれしか〜。

今ここに ブログを書ける 喜びを 心に遺し またブログ書く

  私の和歌は下手くそなことわかっています。昔、和歌の先生で故 河野裕子先生という方がいらっしゃいました。あの才能を天はなぜ、先生を若くして召されたのか。先生に一度、お会いしたことがあります。その時に「先生、私の和歌は下手ですよね」と言ったら、最高の笑顔で「それでいいの、最初から上手い人なんかいなんだから。日本人でしょ? それだけで和歌の素養は備わっているから。どんどん詠んでください。そうしたら必ず上手くなるから」とおっしゃられました。それからこのブログで和歌を書いていますが相変わらずのレベルですね笑笑。まあ、お付き合いください。
 
 この「寳德義一生誕百二十二年祭」の前の記事は三月十四日のホワイトデー(関係ないけど笑)に書きました。最初は、寳德家の歴史の振り返りを留める目的で書いたのですが、もっと広い意味がありました。これ、日本敗戦史を親父が書いています。これは面白い。

みんな歴史の中で生きているのこと

が、しみじみわかります。

  よく、「私は歴史が苦手です」という人がいます。前の大阪事務所の近くのお寺に「大塩平八郎とその子供の墓」が、ありました。当時の社員に「すごいな。こんな近くに歴史が眠っている」と言ったら、一言。「私は歴史が苦手です」という答えが返ってきました笑。それは学校の教科の歴史です。この人は、自分が歴史の一員だということに気づいていません

 以前に、ある企業の再生の仕事に就いたことがあります。古い企業だったので「歴史DD(デューデリジェンス:企業の人間ドック)をしませんか? と言ったらあまり興味を示しませんでした。日本には、1,000年以上の歴史を紡ぐ企業が七社あります。世界最古の会社があります。欧州の国々が国家観を持ったが、せいぜい三百年、少し、古くても五百年です。日本はこんな財産を持っています。

 今、「遺って」いる老舗企業と「残って」いない企業の違いはわかりますか? それは歴史(その会社だけではなく日本の歴史も)と常に緊張感を持って真剣に向き合っているかいないかです。

  ある、老舗企業の社長が教えてくれた言葉があります。「老舗にこだわるな。だけど、老舗を忘れるな」と。まさにそうですね。

 さて、私の祖父は、どんな歴史を歩んでいたのでしょうか。父が一族宛に書いた資料なので、父母ではなく、お父さんお母さんとなっています。親父の文章に若干私が加筆しています。
◯ 明治37年(1904年)4月25日生まれ:なんと日露戦争開戦の日ですね、「一発くれようゲンコツを」で覚えていました。生きていれば、百二十一歳です。会いたかったなあ。
◯大正11年 (1922年)福井縣立小浜水産学校勞科(ぎょろうか)卒業
◯大正12年(1923年)咸鏡北道(かんこうほくどう)水産會書記兼技手(ぎて)
◯大正13年(同)同會専任技手
◯大正13年(同)咸鏡南道洪原郡廳(こうげんぐんちょう)産業技手
◯昭和6年(1931年)咸鏡北道北青(ほくせい)郡廳産業技手
◯昭和9年(1934年)緘鏡南道元山(げんざん)府廳 産業技手
◯昭和12年(1937年)朝鮮総督府咸鏡南道技手を拝命
◯昭和13年(1938年)咸鏡南道水産課勤務
◯昭和15年(1940年)退官-咸鏡南道漁業組合聯合會(れんごうかい)理事(咸南漁撈理事)就任
◯昭和18年(1943年)咸鏡南道興南邑(こうなんゆう)(府)西湖津(せいこしん)漁労組合長
◯昭和20年(1945年)応召
◯和33年(1958年)昭和21年1月25日 満洲国間島省延吉縣で戦病死との通知を受ける。通知を受けけたのは私(健)の生まれた年ですね。

※当時の朝鮮行政区画は
宋銭総督府、道(縣)、府(市)、邑(町)、面(村)であった。郡は郡だが日本内地と違う点は、郡廳があり行政の単位をなっていた。

 ここまで親父の原稿を書きましたが、漢字を検索するだけでも時間がかかりました笑。

 昔、親父から聞いたことがあります。正月になると、今の年賀状が始まる前ですから、玄関に名刺受けを置いておくそうです。そこに来た人が名刺をおいていきます。親父も祖父のか悪い名刺を置いて回ったそうです。

  また、漁労長ぐらいになると賄賂があるそうです。例えば、祖父のところに明太子がの樽が届きます。祖父がその中に手を突っ込むそうです。そうしたら、ビニールに入った現金が出てくるそうです。祖父は即刻持って帰らせたそうです。

 父は昭和2年生まれです。当時日本だった朝鮮で生まれています。その後帝国海軍にはいって、配属が日本になりましたが、幼少期はほとんどが朝鮮で暮らしています。朝鮮人と大喧嘩をして停学をくらった経験もあるそうです。いいなあ、私は中学高校を通して「停学」をくらったことがありません。結構悪かったのに笑。唯一の心残りです。停学になったら本がいっぱい読めますよね笑。

  さあ、豪快な祖父の若い頃が次回紹介されます。明治の男はいいですね〜。

もし祖父が 生きていたなら わたくしと どんな酒を 飲み交わしたのか

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このページは、宝徳 健が2025年4月 1日 03:26に書いたブログ記事です。

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